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2017.04.20

【第2回】さよならピーターパン

さよならピーターパン

前回までのあらすじ
完全管理されたドーム都市スペリオル。普段犯罪など起こらない平和な街で、店から帽子が盗まれるという重大事件が起きる。シティ・ガードのクルミとリョウガは捜査を進め、北野コウという容疑者に辿り着く。

第2話『マンビキとは「万」に「引き」と書く<後編>』

「こんなもん、いくらでも合成できるだろ」

 北野コウさんの携帯端末をにらみつけながら、リョウガさんが言った。

「合成じゃないよ。データ持ってって分析してみたら? それから、彼女にも訊いてみなよ。堺リリコって言って、2階のカフェで働いてる子。きっと一緒にいたって言ってくれるよ」

 わたしたちは写真のデータを受け取り、その場を後にした。

「あの野郎ナメやがって……」

 移動しながら、リョウガさんは静かに怒っていた。ボスが怒るときとは違って顔色も変わらなければ額に青筋も浮かばないが、そのせいで余計に怖かった。

「あいつが絶対犯人だ、間違いない」
「リョウガさん、あてずっぽうで決めつけちゃダメですよ」

 疑わしきは罰せず、がわたしたちの信念であるべきだ。もちろん、疑わしい人間を捜査するのもわたしたちの仕事なんだけども。

「俺にはわかる。知り合いに一人いるんだ、悪戯好きのやつが。北野コウの目は、あいつが悪だくみしてるときの目にそっくりだった」
「はあ」

 聞く耳を持っていない様子だ。まあ北野コウさんが疑わしいのは確かだから、問題はないのかもしれない。

「待てよ。とすると、今回の事件は悪戯目的か」

 リョウガさんがそんなことを言うので、わたしは眉を寄せた。

「悪戯するために帽子を盗んだって言いたいんですか? 帽子が欲しかったからではなく」
「そうだ。北野コウが犯人だったら、おまえが前に言ったように盗む必要はない。要するにゲームなんだよ」
「遊びで人のものを盗んだってことですか? 信じられませんね」

 リョウガさんは一人納得しているが、わたしにはわからない。窃盗は犯罪だ。ちょっと誰かをからかうのとはわけが違う。

「そうか? マンビキをゲーム感覚でやるやつってのが、昔はゴロゴロいたみたいだぞ」
「マンビキ?」
「千の十倍を表す『万』に、引っ張るの『引』に平仮名の『き』。客の振りをして店に入り、こっそり商品を盗むことだ。窃盗の一種だな。日常茶飯事だったらしい」
「それはスペリオルみたいなドーム型都市ができる前の話でしょう? 文明レベルが低かった時代のことです。いまは違いますよ」

 わたしが鼻息荒く言うと、リョウガさんは肩をすくめた。

 

「あ、はい。たしかにその時間、私たち、丘の上公園にいました」

 わたしたちが尋ねると、堺リリコさんはうなずいた。
 リリコさんはおっとりした感じの、穏やかな人だった。口調も丁寧で、わたしは好感を持った。
 場所はリリコさんの自宅だった。彼女はその日、休みだったのだ。

「北野コウさんは写真を撮ったと言っているんですが、撮りました?」

 わたしが訊くと、リリコさんはポケットから携帯端末を取り出した。
 たしかに、コウさんとリリコさんが映っている。
 リョウガさんは悔しそうに顔をしかめた。
 データをもらい、わたしとリョウガさんは鑑識課のサアラ先輩のところに行った。データを解析してもらうためだ。

「うーん、ざっと調べた感じだと、両方とも改ざんされてる様子はないわねー」

 ソフトウェアを使って調べた結果、サアラ先輩はそう結論した。

「北野コウが持ってた写真は、そもそも堺リリコの端末からコピーしたものみたい。チャットアプリでも使って共有したんでしょ。二つとも位置情報は完璧。それから時間も、例の事件が起こったまさにその瞬間――当日の深夜2時35分を示してる。こりゃ、北野コウは犯人じゃないわね」
「でもだとしたら誰が犯人なんです? ほかの市民は、みんなどこにいたかわかってるんですよ?」
「携帯端末の位置情報だけしかデータがないやつがいないか、調べてみるわ。犯行場所を見誤らせるために、わざと外に置いといたのかもしれないし」
「了解だ。じゃあ俺たちは北野コウが犯人という線で、もう少し調査を進めてみる」
「俺たち?」

 わたしは首をかしげた。

「俺とおまえだ、クルミ」
「あの、わたしはあんまりコウさんが犯人だとは思ってないんですが……」
「じゃあ別の犯人を捜すか? 手掛かりはあるのか?」
「あう……」

 手掛かりなんてあるわけない。
 わたしはサアラ先輩のデータ解析を待ってから動こうと思っていたのだ。待ってる間に日常業務を済ませる。窃盗事件にかかりきりだったせいで、書類の整理とか、パトロールとか、もろもろ、仕事が滞っている。いまも都市の道路では、勤勉な歩行者たちによる信号無視が起きているかもしれないと思い、わたしは気が気でなかった。
 けれど、

「やることがないなら手伝え」

 リョウガさんに後ろ襟を引っ張られた。わたしは拒否できなかった。

 

「北野コウのアリバイには、絶対何かトリックがあるはずだ」

 捜査一課のオフィスで、わたしとリョウガさんは並んでデスクについていた。

「俺はショッピングモールから提供された防犯カメラ映像を詳しく調べる。おまえは北野コウと堺リリコが映っている写真を調べろ」
「でも合成ではないってサアラ先輩が……」
「合成以外にも、工夫できることがあるだろ。写真を撮る角度とか」
「角度を変えたところで、何か変わりますか?」
「あるいは、そこに映ってる北野コウが、実は別人って可能性もある」
「他人でこんなに似るなんてありえないですよ」
「双子の兄弟かもしれない」
「現代社会において双子なんて存在しません」

 双子がいたのは、ドーム型都市ができる前――科学的な人口統制が行われる以前のことだ。そんなの社会科の常識だ。

「いいからやれ」
「はーい」

 リョウガさんがあんまり熱心に言うので、仕方なく、わたしはディスプレイ上に映された写真を凝視した。
 都市を背景にして、コウさんとリリコさんが寄り添って映っている。コウさんは左腕をリリコさんの肩に回し、右腕を画面外に突き出しているから、彼が写真を撮ったのだろう。自撮り棒の類は使っていないようだ。リリコさんは両手を顔の横に上げて、ピースサインを作っている。

「うーん、やっぱり特に変わった点はないですよ」
「本当にないか? ちょっとでも不審なところがあったら、北野コウたちを尋問する材料になる。それだけでもいいんだ」

 不審なところ……。
 わたしはもう一度、見直してみる。
 待てよ――。

「サアラ先輩は、この写真はリリコさんの携帯端末で撮ったものだって言ってましたよね?」
「ああ」
「でも見てください。これ、どう見てもコウさんが写真を撮ってますよね?」
「そう見えるな」
「なぜです? 普通、写真を撮るなら自分の端末を使います」
「たしかに変だな。よし、堺リリコに訊いてこい」
「了解です!」

 

 わたしは再び堺リリコさんの自宅を訪れた。

「最初はコウくん、タブレット端末で写真を撮ろうとしてたんですよ」

 わたしが、なぜリリコさんの携帯をコウさんが使ったのかと尋ねると、リリコさんはそう言った。

「けど、そのタブレット、画面がバッキバキに割れてて。高いところから落として割れちゃったみたいなんです。『それ、次に落としたら今度こそ動かなくなっちゃうんじゃない? 携帯使えば?』って私が言ったら、コウくんは『でも携帯端末、家に忘れちゃってさ』って」
「携帯を忘れたんですか」

 信じられなかった。

「ええ。びっくりですよね。それで、私が携帯を貸したんです。私が撮ってもよかったんですけど、あんまり自分撮りするの、得意じゃなかったんで、コウくんにやってもらいました」
「わかりました。ご協力ありがとうございます」

 わたしは本部に向かって歩きながら、考える。
 何かが頭に引っかかっている。
 コウさんの携帯端末は傷一つなかった。
 あれを忘れて液晶が割れたタブレット端末を持っていくって、どういうことだろう?
 携帯端末が壊れていたから代わりにタブレット端末を持っていったのならわかる。その逆なんて、わけがわからない。
 むしろ、タブレットが使えないんだから携帯は絶対持ってこなきゃいけないと思いそうなものだ。あるいは、タブレットを持っていこうとして、壊れてるからやっぱり携帯にしよう、と考えるとか。

「あ、クルミ」

 捜査一課のオフィスの前で、サアラ先輩と会った。

「ちょうどよかった。これ、リョウガに渡しといて」

 サアラ先輩から、密閉された透明なビニール袋を渡される。
 中には砂粒くらいの小さな欠片がいくつか入っていた。

「何です、これ?」
「たぶんタブレット端末のボディの破片。犯行現場にあったのよ。防犯カメラの下あたり」
「よくこんなの見つけましたね」
「鑑識ナメないでよ」

 サアラ先輩は胸を反らす。

「初期捜査の段階で、回収だけはしてたの。ただ、別に証拠の類とは思えなかったから、放置してた感じ。『何でもいいから手掛かりになりそうなものを持ってこい』って、リョウガがうるさく電話してきたから、とりあえずこれでお茶を濁そうかな、と」

 サアラ先輩はリョウガさんの口真似をした。ぜんぜん似てなかったので、わたしは思わず笑う。

「で、どう? 手掛かりになりそう?」
「そうですね……」

 タブレット端末の欠片――。
 防犯カメラの下――。

「あ」

 わたしの頭の中で何かがつながる。

「先輩。ちょっとお願いがあるんですが」
「仕事?」
「仕事です」
「じゃあ仕方ないわね。何?」
「防犯カメラを調べてほしいんです」
「えー、また? カメラ映像ならもう穴が開くほど分析したじゃん」
「違います、映像のほうじゃありません。{カメラ本体}のほうです。何か変なものが付着したりしてないか調べてほしいんです」
「まあいいけど、どうしてよ?」
「それは……あとで説明します」

 間違ってたら恥ずかしいから、確信を持てるまでは誰にも話さないでおこうと思った。

「オーケイ。ちょっと待っててね」

 サアラ先輩を見送ると、わたしはオフィスに入り、自分のデスクに座った。サアラ先輩から託されたものをリョウガさんに渡すのも忘れて。
 自分の思いつきを確かめるのに夢中だった。
 わたしはライフログのデータファイルを開いた。申請した分のものはわたしたち平職員でも閲覧できるように、ボスが設定しておいてくれている。
 北野コウさんのここ数日間の行動記録を閲覧する。
 犯行の二日前に妙な行動が見つかった。その日、コウさんは消灯時間を過ぎてから職場を出ているのだ。普段は定時きっかりで上がっているのに。
 それから買い物の記録も調べる。予想通り、一週間ほど前に{防犯カメラを一台購入している}。犯行の様子を映していたのと同じタイプのものだ。
 これを使って今回の仕掛けを準備したんだろう。いろいろ実験したに違いない。
 あとはサアラ先輩の分析結果次第だ。
 ――3時間後、サアラ先輩から電話が来た。

《カメラ本体から妙なものが検出されたわ。粘着テープの糊みたいなんだけど》

 サアラ先輩は困惑しているみたいだが、わたしは頭の中が冴えわたっていた。
 難しい数学の問題の解き方を思いついたときのような快感が、頭の中を駆け抜けていた。

「ありがとうございます。つきましては先輩、いろいろお願いして申し訳ないんですが……」
《なにー? まだなんかあるの?》
「実験に協力してください」

「クルミ、実験って何だ?」

 リョウガさんが不審げに言った。

「くだらないことだったらタダじゃおかないからな」

 そう言ったのはボスだ。声が低い。普段から厳しい人だが、今日は輪をかけて怖かった。機嫌が悪いみたいだ。窃盗事件に人員を割かれている関係で、いま捜査一課は人手不足。そのしわ寄せがボスに行っているのかもしれない。
 でもそれも今日で終わりだ。
 わたしたちは、シティ・ガード本部の警備室にいた。防犯カメラの映像が見られる場所だ。リョウガさんとボスに頼んで、来てもらった。

「大丈夫。きっとおもしろいですよ」

 わたしはそう言って、ディスプレイの一つを指さした。

「二人とも、これを見てください」

 そこには会議室が映されている。部屋の真ん中には帽子をかぶったマネキン。
 そこに人影が現れる。
 サアラ先輩だ。
 先輩はマネキンに近づくと、ひょいと帽子を取った。

「何だこれは。窃盗のシミュレーションか?」

 カメラのほうを向いて帽子をくるくる回しているサアラ先輩を横目で見ながら、リョウガさんが訊いてくる。

「はい、その通りです。あ、サアラ先輩から電話です」

 わたしは携帯端末を取り出した。ビデオコールだ。端末を操作すると、画面上にサアラ先輩の顔が映る。
 その背景を見て、リョウガさんとボスが息を飲んだのがわかった。

「そんな、バカな」

 ボスがうめき声のようなものを上げた。リョウガさんも隣で目をまん丸く見開いている。
 それもそのはずだ。サアラ先輩はどう見ても屋外にいる。
 すぐに二人は防犯カメラの映像に視線を戻した。そこにもサアラ先輩はいる。

「どうなってるんだ、いったい?」

 リョウガさんが訊いてきたので、

「では、会議室に行きましょう」

 わたしは二人を引き連れて、会議室まで行った。
 {真っ暗な会議室}に明かりをともす。
 照明によって露になった会議室には、マネキンも帽子もなければ、サアラ先輩もいない。

「くそっ、やられた! そういうことか!」

 リョウガさんが悔しそうに言った。

「何だ? どういうことだ?」

 ボスはまだ真相がわからないのか、目を白黒させていた。

「あれですよ、ボス」

 リョウガさんが指さした先には、防犯カメラがある。それには粘着テープで棒が貼りつけられており、その棒には括りつけられている携帯端末がついている。
 カメラのレンズはちょうど携帯端末の画面を凝視する形になっていた。

「なるほど、私たちが見ていたのは携帯端末の映像だった、というわけか」
「そういうことです」

 ボスの言葉に、わたしはうなずいた。

「北野コウさんは、犯行が起きたと{された}夜、仕事が終わると防犯カメラに自分の携帯端末を括りつけた。照明を消した状態で防犯カメラに近づいて設置したか、あるいは遮光カーテンのようなものを被せてから設置したか、ともかく防犯カメラが作動しない形で作業したんだと思います。そこで流される映像は、前々日に撮影した映像を加工したもので、深夜2時35分に犯行の様子が映し出されるように設定されていた。防犯カメラは明かりに反応するので、設定した時刻に明るい映像が流れた瞬間、カメラが動き始めたというわけです。そして、その映像が流れている間に、堺リリコさんと写真を撮影した」
「北野コウの携帯端末のGPS情報がなかったのは、位置情報からこのトリックを割り出されないようにするためにGPS機能を切っていたからか」

 リョウガさんが言った。そのせいでコウさんはその時間帯、どこにいたのかライフログに記録されていなかったのだ。

「写真をリリコに撮らせたのは、携帯端末を持っていなかったからだな」

 ボスが言った。
 わたしはうなずく。

「そうです。おそらく、本当はタブレット端末で防犯カメラに仕掛けをして、携帯端末は持ち歩く予定だったのではないかと思います。そのほうが位置情報をライフログに記録できるので。けれどタブレット端末を防犯カメラに括りつけるときに失敗して落としてしまって、そのときにタブレットの画面は割れ、ボディの破片が辺りに散らばった。それで急遽、携帯端末を使って仕掛けを作った」
「それがなかったらわからなかったかもしれないな」

 リョウガさんは顔をしかめる。

「そうですね。で、最後の仕上げとして、コウさんは翌朝早く出勤して、照明をつけずに帽子を盗む。その後、仕掛けを回収し、通報した、というわけです」
「クルミ、おまえ天才だよ」

 リョウガさんに褒められ、わたしは顔が熱くなる。

「そ、それほどでも……」
「〈成人式〉のときの適性検査もあながちバカにできないな……もっと犯罪がある都市だったら、おまえ、ヒーローになってたぞ」
「えへへ――あ、でも……」

 わたしは照れ笑いを浮かべつつ、唐突に不安に襲われた。

「白を切られたらどうしましょう」

 問題は、コウさんが犯行に及んだという決定的な証拠がないことだった。たしかに、犯行が可能なのは、朝一番に職場に現れたコウさんだけなのだが。

「なあに、そのときはちょっとシメてやる」

 リョウガさんはニヤリと笑った。

「シメル?」
「腹に一発ぶち込んでやればしゃべる気にもなるだろう。あいつがやったのは確実なんだ。ぜってえ吐かせる」

 この人、暴力を振るう気だ!

「だだだダメですよ! 法律違反ですよ!?」
「先に違反したのはやつだ」

 まずい、本気だ。いつものリョウガさんじゃない。怖い。

「よし、二人とも、とりあえず北野コウを連れてこい。尋問してみよう」

 ボスが言った。

「了解です!」「了解」

 わたしたちは部屋を飛び出した。

 

 わたしとリョウガさんは件のショッピングモールに赴いた。
 しかし、コウさんの姿はなかった。

「ああ、コウくんだったら今日は来てないわよ」

 わたしがコウさんのことを尋ねると、店員の女性は言った。その様子は不満げだ。

「無断欠勤なの。信じられる? 犯罪よね、これはもう」

 店員の女性はグチグチとひとしきり悪態をついた。

「逃げやがったか」

 リョウガさんが眉間にしわを寄せる。

「逃げるって、どこにです?」
「たしかに逃げようもないか」

 当局の許可がないかぎり、一般市民は都市ドームの外には出られない。もっとも、仮に出られるとしても、外に出ようなどと考える人なんていないだろうけど。外には何もないのだから。
 と、わたしのポケットの中で携帯端末が震えた。

《クルミか。私だ》
「ボス、どうしました?」
《いや、申し訳ない。北野コウは職場にはいない。GPS情報によると、どうもまだ家にいるようだ。自宅に向かってくれ》
「了解です」
「よし、じゃあ直接お宅訪問と行くか」

 リョウガさんにも電話の内容が聞こえたようだった。

 

 コウさんの自宅はショッピングモールから歩いていける距離にあった。一般的な公営マンションで、オートロック式だ。一階のロビーに管理人室が併設されていて、ガラス張りの窓口がつくられている。
 シティ・ガードのバッジがついたIDケースを見せると、管理人さんはロックを開けてマンション内に通してくれた。
 コウさんの部屋は3階だった。
 部屋の前に着くと、リョウガさんがインターフォンを押した。

「――出ないな。寝てるのか?」

 リョウガさんは二、三度ボタンを押したが、反応がない。

「仕方ない。管理人に頼んで開けてもらうか。叩き起こしてやろう」
「あれ、リョウガさん、見てください」

 わたしはドアを指さす。
 よく見ると、うっすらドアが開いていた。

「何だ、物騒だな。泥棒が入ったらどうするつもりだ」

 リョウガさんは眉をひそめながらドアを思いっきり開き、中に入った。
 泥棒なんてこの都市にはいませんよ、と思いながら、わたしはそのあとについていく。
 だが、

「むぐっ」

 すぐに大きな壁にぶつかって、後ろによろけた。

「リョウガさん、急に立ち止まらないでください、危ないですよ!」

 ぶつかったのは、リョウガさんの背中だった。

「痛ったた……鼻ぶつけちゃった……うぷっ」

 わたしは痛みとは別の理由で顔をしかめた。
 ものすごい臭気だった。いまだかつて嗅いだことのないタイプの匂いだ。胃の中のものがせりあがってくるくらい、不快な匂い。

「悪い……だが、見てみろよ、これ」

 リョウガさんが脇によけた。
 わたしは鼻と口を押さえ、目に涙を浮かべながら、玄関の先を覗き見た。
 誰かが仰向けに倒れている。
 コウさんだ。
 彼の周囲には赤黒い水たまりができていた。
 わたしは一歩近づき、コウさんを観察する。
 胸の部分からお腹にかけて、同じような色の何かが見える。
 コウさんはスウェットの上下姿だった。よく見ると、その前面が切り裂かれていて、赤黒いものが露出していた。胸のあたりはぐちゃぐちゃでよくわからなかったが、お腹のあたりは少し形が見えた。縮れたロープのようなものがお腹の中からはみ出ている。
 強烈な匂いの原因は、これら一連の赤黒い物体にあるようだった。
 わたしはしゃがんでコウさんの顔を覗き込んだ。
 コウさんは目を開き、虚空を見つめている。瞬きを一切していない。また、開けっ放しになった口からは、水たまりを作っているものと同じ液体が漏れ出しているようだった。
 そして鼻からも口からも息は出ていないし、吸ってもいない。

「コウさん? どうしたんですか?」

 わたしは訊いた。
 答えはなかった。
 肩を掴んで揺さぶってみるが、やはり反応はない。
 眠っているようにも見える。けれど、目を開けて寝る人なんて、いるんだろうか?

「クルミ」

 リョウガさんが声をかけてくる。
 見上げると、リョウガさんはすごく怖い顔をして、わたしをにらみつけていた。わたしはちょっと首を縮める。

「ふざけてるのか? シタイが答えるわけねえだろ」

 リョウガさんは低く、唸るような声で言った。
 彼が怒っているのはわかったけれど、怒っている理由はわからなかった。
 だって……

「シタイ? シタイって何ですか?」

 リョウガさんは、わたしの知らない言葉をつかっていたから

著者:高橋びすい
イラスト:黒銀

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