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2018.06.08

【第10回】ぼくたちは人工知能をつくりたい

美少女AIの掟
  • ひとつ、美少女AIはどんなことがあっても私たちを守る。
  • ふたつ、美少女AIはどんなことがあっても私たちの願いを叶える。
  • みっつ、美少女AIはどんなことがあっても自分の命を守る。
  • ただし、掟は設定された順に優先される。ひとつ目とふたつ目が矛盾した場合、ひとつ目が優先される。
人工知能(キャラクター)を作るための五工程
  • (0)※まず仲間を見つける
  • (1)性格を決める
  • (2)容姿をデザインする
  • (3)CGモデルを作る
  • (4)「学習プログラム」と「人格生成プログラム」の実装
  • (5)ロボットのAIとキャラコン部オリジナルのAI、人間の連動訓練

第10回:提案~

 定期報告のため、生徒会室を訪ねた。凌霄花のぞみは報告を聞くと、いつものように冷ややかな声で問いかけた。

「ふむ。それで?」
「それで、って。報告は以上ですが」
「では君たちはそのAIが目覚めるのをただ黙って待ち続ける。そういうことかな」
「そうなりますね」

 放課後の生徒会室は相変わらずがらんとしていた。何度もここへ足を運んでいるけれど、この部屋で会長以外の人間と会ったためしがない。

「期限は?」
「決めていません」
「大会までに目覚めなかったら?」
「その時の責任は部長の自分がとります」
「なるほど。だが、部の存続の条件は変わらないよ」
「承知の上です」
「ならば問題ない……と言いたい所だが、次善の策というものを考えておくべきだと私は思うが」
「何ですか次善の策って」
「こういうのはどうだろう。全く違うAIを作るというのは」
「だから別のは作りませんって」

 ミサが目覚めるのを待つことを決めた。ミサBは作らない。

「そうではない。全く違う人工知能を、君や美作君の手でゼロから作るんだ」
「俺たちが?」
「ああ。実践を通して学ぶことも多いだろう。その過程で解決策が見えてくる可能性だってある。それに部長の君には他に考えるべきこともあるしな」と生徒会長は言った。
「この前から何なんですか。考えるべきことって」
「察しが悪いな」
「悪かったですね」
「先のことだよ」と会長は言った。
「先のこと?」
「君はキャラコン部を後世に残していくつもりなんだろう?」

 会長はいつもと変わらない、冷ややかな口調のまま言った。

 

「全員注目!」

 部室の扉を開けると同時に叫んだ。
 部室に集まっていた一同は虚をつかれ、一瞬ぽかん、とした。

「なんだそれは。我が校自慢の応援団か」颯太は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「え。応援団なんてあるの。今時」と湖夏。
「ありますよ」と美作が答える。
「へーそうなんだ。あれでしょ。学ランきてフレーフレーってやるやつでしょ」
「その通りです。いつも学生服に下駄ですよ」
「絶滅危惧種! 見てみたい」
「体育館の裏で練習しています」
「マジで。見に行こう!」
「行きましょう!」

 美作と湖夏は立ち上がった。

「ちょっと待て! 先に俺の話を聞け!」
「何? 早くしてよ」と湖夏は不満げな顔をする。
「今日は新しい提案があるんだ」
「何。提案って」
「俺たちも人工知能のプログラムを組んでみないか?」
「プログラム?」

 湖夏と美作が声を合わせた。

「そうだ」
「ハル」颯太はいつになく神妙な顔をしていた。
「何だよ」
「その一番下を開けてみろ」

 颯太はすぐ隣にあるキャビネットを指差した。

「何で」
「いいから」

 渋々引き出しを引っ張り出すと、中に一枚の紙が入っていた。

「読んでみろ」

 その四つに折られた紙を開いた。そこには迫力ある筆文字で大きく「断る!」と書かれていた。

「いつの間に仕込んだ」
「お前がいずれそう言い出すだろうことはすでに予測済みだったのさ」

 そう言う颯太はしたり顔である。

「ハル、お前は俺が何のために生きているか知っているな?」

 愚問、とでも言いたげな顔だ。
 言わずもがなである。ゲームだ。

「お前が最初から乗ってくるとは思ってないから。俺は美作と湖夏に聞いてんの」
「ならばよい」

 そういうと、颯太はVR5をかぶり、再びゲームの世界に帰って行った。

「人工知能のプログラム、ってどういうことですか」

 小動物を思わせる金髪美少女は、明らかに警戒していた。ミサの目覚めを待とうと決めたばかりだ。心変わりでもしたのかと疑っているのだろう。

「心配するな美作。ミサの代わりを作ろうっていうんじゃない」
「じゃあ何のためにそんなことをするんですか」
「そうよ」と湖夏も乗り気ではない様子。
「俺たちは大会後のことを見据えて活動すべきだと思うんだ」と切り出した。
「大会後?」
「ミサが完成した後も色々クリアしなければならない課題が出るはずだ。それに、部が存続するとなれば、来年以降のこともある」

 昨日会長に指摘された「先のこと」。それは、高校生キャラコン以降のことだった。俺たちが卒業するまでどのような活動をしていくのか、その方針を決めるのは部長の役割だと会長は語った。高校生キャラコンに出ることしか頭になく、その先のことなんて考えたこともなかった。

「先ねぇ……」

 湖夏はピンときていない様子だったけれど、美作は何かに思い至ったようだった。

「確かにそうですね……何しろミサは私たちよりも長生きするわけですから」
「ん?」

 湖夏の顔が曇った。

「湖夏。お前、ミサとどれくらい付き合うつもりだ?」
「どれくらいって……二年くらい?」と湖夏は答えた。
「え!? それは短すぎますよ!」と美作は驚きの声をあげた。
「短いって。じゃあ美雨は」
「一生です!」
「イッショー!」

 湖夏は絶句した。

「長すぎでしょ。ていうか、どうかしてるでしょ」
「何を言ってるんですか。AIの命は半永久的。その命を途中で終わらせることなんてできないじゃないですか。一生添い遂げるのは当然です」
「ああ……そうかな……?」

 湖夏は軽く引いていた。
 そう。ポイントはそこだ。

「俺たちは今までミサをどうやって完成させるか悩んできた。でも、今後は完成した後の話をしていかなきゃならない」
「さすがハルさん。鋭いですね!」
「ま、まあね……」

 鋭いのは会長だ。その大半は、昨日会長に指摘されたことだった。

「でも、それとプログラムを作ることに何の関係があるわけ?」
「技術は日々進歩している。その技術についていかないとミサにいい環境を与えてあげられない。美作みたいにミサとずっと付き合っていきたいなら尚更だ」
「その通りです。ハルさん。やりましょう!」

 美作は感動した様子で俺の手をつかんだ。

「私たちの手でミサを世界で一番幸せなAIにしましょう!」
「いやそこまで大袈裟なことは言ってない」
「湖夏さんはどうしますか?」
「まあ、やってもいいけど」

 湖夏はとりあえずその提案に乗ってくれた。

「そこでお願いだ。直島」
「なに?」キーボードを叩いていた直島が顔を上げた。
「俺たちの先生になってくれないか?」
「せんせい?」

 直島は首を傾げた。

「NAGIちゃんならピッタリです。この間の勉強会でも教えるのすっごく上手でしたし!」
「あれはアプリのおかげ」と直島は謙遜した。
「それだけじゃない。俺たちは教わっているから分かる。直島にまた教えて欲しいんだよ」

 そういうと、直島は照れたように俯いた。

「……別にいいけど」
「やった!」

 俺と美作は飛び上がる。

「いつから始める?」と直島は聞いた。
「もちろん……」

 始めるのは今、この瞬間だ。

※ ※ ※

 目覚めると、暗闇の中に、うっすらと白い何かが見えた。つ、と目をあげると、静かに寝息を立てる美作の顔があった。

「……」

 冷静になろう。
 自分に言い聞かせた。そして、静かに目を戻す。そこには、Tシャツからのぞいた美作の胸の谷間があった。

「……!」

 とっさに身を起こした。暗闇の中、目を凝らすと、俺を真ん中にして、左右に美作と湖夏が寝ていた。
 一体何があった!?

※ ※ ※

 話を数日前に戻そう。

「合宿をしましょう!」

 そう言いだしたのは美作だった。

「合宿? どこで」
「うちです」
「ていうか、なんで合宿?」

 と、どんよりとした目の湖夏が顔をあげた。

「この戦を早く終えたい。そう思いませんか?」

 そういう美作も、顔に疲れがにじんでいた。

「戦ねぇ……」

 PCのモニターに目を戻すと、そこには疲れの原因である、けばけばしいピンク色の熊が映っていた。

「なんか用なの~」

 熊はそう言うと、いやらしい笑みを浮かべた。
 このかわいくないピンク色の熊の名は、ケン・クマモトと言う。この熊を万人に愛される国民的キャラクターにすること。直島は人工知能を学ぶ方法として、そんな課題を出した。
 ケン・クマモトは人工知能教育ソフト(初学者向け)に入っているキャラクターだった。その熊を改造していくことによって、人工知能の仕組みを学ぶというのがその基本コンセプトである。そのソフトウェアは「チャプター1 ハロー、ケン・クマモト! あいさつから始めよう!」と軽い調子のタイトルで始まっているが、実際ケン・クマモトと話してみると、こんなやりとりが展開されることになる。

 

 モニターの中、純和風の畳の部屋に、ピンク色の熊が寝っ転がっている。

「こんにちは」

 声をかけると、画面の中の熊は億劫そうにこちらをちらりとみる。

「こんにちは~」

 その声は酒焼けしたかのようにしゃがれている。

「天気いいですね」
「そうですね~」
「ケン・クマモトは元気?」
「うへへ……どう見える~?」

 ケン・クマモトはにやけた。

「……元気そうに見えるけど」
「本当は昨日彼女にフラれてすっごく凹んでるんだ~……」
「ああ、そうなんだ。それは大変だね……っていうか、これ初対面なんだけど。初対面で彼女にフラれた話するってどんな人工知能だよ」
「いいじゃない。僕は傷心なの。慰めてよ~!」
「やだよ。めんどくさい」
「めんどくさいとか……そんなこと言わなくてもいいじゃない……」

 ケン・クマモトはひどく傷ついたような顔をした。

「あ……いや……ごめん……」

 こちらが謝ると、「別にいいけどね……」なんて言いながら、畳の上に落ちている紙くずを拾って、ゴミ箱に向かって投げ始めた。しかし、紙くずは一個も入らず、ゴミ箱の外にコロリと転がる。ケン・クマモトは無言でゴミ箱を見つめ、ちらりとこちらを見る。

 

 なぜこんなにも人をイライラさせるAIを生み出したのか。ソフトウェア製作者の意図は計りかねるが、ともかく、このケン・クマモトを改良し、感じのいい熊に仕立て上げるのが、我々の目指すゴールである。
 しかし、熊を改良するのは簡単ではなかった。直島が説明したように、人工知能の中身はブラックボックスである。この熊の頭脳も同じで、いくらパラメータをいじり回したところで、どのような結果が出るのかは分からない。ケン・クマモトを変えるためには、「学習」をさせて、熊自身に「決めさせる」ことが必要だった。
 三日間作業をしてみたが、結果はかんばしくなかった。ケン・クマモトは初期状態から変わっておらず、ふてぶてしい態度の、時折げっぷを織り交ぜてくる、嫌な熊のままだった。

「あんたのその話し方直しなさいよ」

 イライラした湖夏はケン・クマモトに説教した。

「なんで~?」とケン・クマモトはしゃがれ声で答えた。
「イラっとするから」
「そうなんだ~ごめ~ん~」

 ケン・クマモトは漫画本を読みながら、尻をかいていた。反省している様子はまったくない。

「その語尾を伸ばすのやめなさい」
「そうイライラしないで。リラックス、リラックス~」
「もう、何なのコイツ!」
「かわいいクマだよ〜」

 などと、ケン・クマモトは気の無い返事を返すばかりである。
 もちろん湖夏も説教で変えられるとは思っていない。しかし、一言言ってやりたくなる気持ちはとてもよく分かる。

「この喋り方だけは手っ取り早く何とかしたいんだけど!」

 湖夏は爪を噛みながら、ソースコードとにらめっこしていた。湖夏は前半の簡単なチャプターをすっ飛ばし、いきなり高難易度のチャプター13「話し方修正プログラム」に取り組んでいた。

「いきなりそんな難しいところやっても分かんないだろ」

 湖夏はぎろりと睨んだ。

「わかってるけど。早く何とかしたいの!」
「イライラしないでよ、こなっちゃーん~」とケン・クマモトは親戚のオジサンみたいに馴れ馴れしく言った。
「あーもう、うるさい!」
「ごめ~んね~これがぼくの性格だから~」

 湖夏は力任せにPCの画面を閉じた。

「……わかった。合宿しよう」湖夏はため息交じりに言った。
「本当ですか!?」

 美作は飛び上がって喜んだ。

「もううんざりなのよ……」
「決まりですね。次の連休の三日間で片をつけましょう」
「マジかよ。頑張れよ」
「何言ってるんですか、ハルさん。部長が不参加なんてありえません」
「え。でも、合宿だろ」
「あんたも参加に決まってるでしょ」
「いやいや。マズいだろ」
「何が」
「女の子の家に泊まるなんて」

 そういうと、湖夏は白目で睨んだ。

「何勘違いしてんの。私たちは泊まり。あんたは通い」
「ああ、そう……」

 当然だ。だけど何だろう。ちょっと寂しい。

「ハルさん、ちょっと残念そうな顔しましたね」
「してないし」
「いや、してたよ。明らかに」
「してない」
「分かりました。ハルさんも一緒に合宿しましょう」
「できるわけないだろ」
「美雨がいいって言うならOKじゃない?」
「からかうな」

 そんなこんなであっさりと合宿をすることが決まり、美作はうきうきとして、当日の予定表を作った。三日間、朝八時から夜十一時まで予定はみっちりと埋まっていた。

「過酷すぎないか?」

 それは、これまで体験したことのない、過密なスケジュールだった。

「始める前から何を弱気なことを言っているんですか。短期で成果を出すためにはこれくらいしないと」

 そう言う美作の鼻息は荒い。

「湖夏はどう思う?」

 湖夏はちらりと予定表を見た。

「これくらいいけるでしょ。ていうかやらないとダメでしょ。ケン・クマモトを退治するためには」
「マジかよ……ていうか退治じゃないからね」

 直島と颯太にも合宿の件を話したが、ふたりは参加しない意志を表明した。

「その課題は三人の力で乗り越えた方がいいと思う」

 直島は、俺たちに対して気兼ねをした。

「別に気にする必要ありませんよ。NAGIちゃんは顧問のようなものですから。そばにいてくれた方がいいと思います」
「そうはいかない。三人の力でこの課題をクリアしないと意味がない」

 我々が頼りきりになってしまうのを知っているからか、直島は最近、部室にも姿を現さない徹底ぶりである。

「残念です……じゃあNAGIちゃん、夕飯だけは一緒に食べませんか」
「メニューは?」
「合宿といえばカレーです」
「行く」

 直島は食い気味に答えた。どんだけカレーが食べたいんだよ。

「私が作る」

 食べたいんじゃないんだ。

「ちょっと腕には自信がある。私が夕飯を担当する」

 そう言って、直島は不敵な笑みを浮かべた。
 一体、何を考えているんだ……。
 一方、颯太は合宿どころではないと答えた。

「ハル。週末は『ディストピア6VS』のフェスだぞ?」

 そのイベントを差し置いて、合宿などしている暇はない、ということらしい。

 

 土曜日の朝は、雲ひとつない穏やかな好天に恵まれた。俺は湖夏と待ち合わせをして、揃って美作の家に向かった。湖夏は大きなスポーツバックを肩からかけていた。

「随分大荷物だな」
「色々必要なものがあるんです。あんたらゲームバカとは違うの」
「おいおい颯太と俺を一緒にするなよ」
「でも、三日間お風呂にも入らないって言ってたよ。信じられない」

 湖夏は呆れたように首を振った。
 颯太は今頃、風呂に入らないどころか、不眠不休の戦いに突入しているに違いない。あの男はゲームに関しては、驚くほどストイックなのだ。

 インターフォンを押すと、Tシャツにハーフパンツ姿のラフな格好の美作が、はりきった様子で迎えた。

「お待ちしておりました!」

 計画通り、朝八時から作業を開始した。特別なことをするわけではない。教育用ソフトの手順に従い、コードを書いてプログラムを組み、その働きを確かめながら、ケン・クマモトの「学習プログラム」に実装していくだけだ。時間はたっぷりとある。その間に完璧な成果を出したい。

「もう……これどこにエラーがあるわけ?」

 作業開始から三時間。そう愚痴る湖夏は、もう小一時間ほど吐き出されるエラーと戦い続けていた。

「こなっち、見せてください」
「うん」

 美作が立ち上がり、湖夏の画面を覗き込んだ。それを横目に見ながら、自分の作業を続けた。いつもであればすぐに集中力が切れ、漫画を読んだりネットを見たりしてしまうが、監視の目が行き届いているからか、ふたりによく見られたいという見栄からか、作業はいつもより捗っていた。不純な動機でも、作業は進む。
 昼食は当番制にした。初日は湖夏の担当、ペペロンチーノのパスタと野菜サラダを出した。

「うん、うまい」
「おいしいです!」

 手が止まらない。唐辛子とオイルの使い方が絶妙だった。

「ま、大したものじゃないけどね」と謙遜した。

 もしかすると、この料理もゲームに登場するイケメンキャラクターの好きな食べ物なのだろうかとそんな疑問が頭を過ぎったが、湖夏が怒りそうなので、聞くのはやめておいた。
 五時ごろ、直島がやってきた。

「NAGIちゃん、大量ですねぇ」
「色々持ってきた」

 直島は食材の詰まった買い物袋を両手に持ち、大ぶりなトートバックを肩からかけていた。

「今日はカレーを作るんだよな」
「それにしては材料が多くない?」
「いろいろ必要なものがあって」

 直島は袋の中から赤、黄、緑など、色とりどりの粉の入った瓶を取り出し、カウンターに並べた。

「それ、なんですか?」美作が瓶のひとつを手に取る。中には雑草の葉みたいなものが入っていた。
「フェヌグリーク」

 と直島は答えた。

「ふぇ、ぬ……?」
「スパイス。これらを配合し、カレーを作る」
「ええ!?」

 大量の荷物の大半は、そのスパイスの瓶で占められていた。直島は計量スプーンで粉を計り、次々と混ぜていく。美作は化学の授業のようなその作業を盗み見ていた。

「……大丈夫なのか、あれ」声を潜めて、美作に聞いた。
「さあ?」と美作は首をひねる。

 その不安は一時間後には綺麗さっぱり解消した。芳しいスパイスの香りが部屋の中に満ち溢れた。

「ハルさん……」
「何だ?」
「落ち着きません」
「なぜだ」
「あの香りには……抗えません」
「耐えろ」
「無理です。ていうか、ハルさんの手もさっきから止まってます」
「ぎくり」

 その通りだった。暴力的なスパイスの香りを前にして、抗う術などない。

「しょうがないだろ……なぁ、湖夏」

 振り返ると、湖夏は一心不乱にキーボードを叩いていた。

「……湖夏?」
「きた」と湖夏は呟いた。
「何が」
「降りてきた。集中力、めっちゃ高まるやつ」

 そういう湖夏の目は、何かに憑かれたように怪しい光をたたえていた。

「……美作、湖夏なんか怖いんだけど」
「え、何か言いました?」

 美作は美作でカレーに釘付けである。
 俺は俺で完全に集中力が切れている。
 軽く伸びをして、席を立った。

「直島、何か手伝えることはあるか?」
「大丈夫。今日は私がひとりでやるから」

 直島は鍋でカレーを煮込む間に、にんじんの皮を剥いていた。

「ちょっと休憩。その間に手伝わせてくれよ」

 直島の隣に立って、ざるに入っていたにんじんをとり、直島に手を差し出した。

「こいつの皮を向けばいいんだろ」

 直島は少しためらって、「ありがとう」というと、手にしていたピーラーを渡した。

「何を作るんだ?」
「ラペ」
「なにラペって」
「サラダ。フランスの家庭料理」
「へえ。洒落てるね」
「私も手伝います!」

 美作も立ち上がった。

「いいの?」
「はい! みんなで作りましょう!」

 皮を剥き終えた後、美作に細切りを任せて、流しにたまっていた調理道具を洗った。直島はフライパンで種のようなものを油で炒め、カレーの鍋に放り込み、手早く蓋を閉めた。ばちばちと油がはぜ、にわかに豊かな芳香が立ち上った。
 風が気持ちいいからと、ベランダで食事をすることにした。美作家のベランダは俺の部屋(六畳)くらいのスペースがあり、そこに木製の机とベンチが備えられていた。湖夏はちょうど「降りてきている」ところだからと、食事を断った。人にはそれぞれの作業のスタイルというものがある。
 ベランダに鍋や食器を出し、準備を整えた頃、ちょうど日暮れを迎えた。空の紅が、ゆっくりと群青色に侵食されていく。遠くに見える山のシルエットが闇に溶けて、ぼんやりとしていた。

「では」
「いただきます」

 直島特製のカレーを一口頬張った。その瞬間、今までに味わったことのない強烈な香りが鼻から抜けていった。

「ふわぁっ……!」
「なんだこれ。すごいな! ていうか、辛!」
「確かに後からきますね!」
「でも、うまッ!」
「辛さの先にしか表現できないものがある」

 直島はちょっと自慢げな様子で答えた。
 俺と美作はその初めての味にはしゃいだ。

「なぜだろう。体からは出ないのに、頭からはとんでもない量の汗が噴き出してくる……!」
「ハルさんもですか。私だけだと思ってました」

 そんなことを言いながら、水を飲み、火照った舌を冷ます。

「これ、どうやって作ったんですか?」
「スパイスで煮込んだだけ」
「煮込んだだけでこんな風にはならないだろう」
「スパイスの特徴をうまく生かせば可能。主張の強いもの、辛味があるもの、さわやかなもの。スパイスの持つ強烈な個性。それを掛け合わせて、相互作用した結果がこれ」
「さすがNAGIちゃん。スパイスまで詳しいとは」
「一体どこで知ったんだ」
「学に教わった」
「マナブ?」
「大島学」

 すっかり忘れていたけれど、直島は海外でも有名なメディア・パフォーマー・大島学の率いるチームの一員だった。

「学のチームにはいろんな国の人がいるから。学も昔、チームメイトから教わったと言っていた」

 そんな話をしながら、直島はカレーを一口頬張った。額からつ、と汗が伝う。直島は眼鏡を取った。はらりとおくれ毛が散った。顎を伝う汗を、ハンカチで拭う。上気した白い肌が、妙になまめかしかった。
 見とれた美作のスプーンから、カレーがこぼれ落ちた。

「ハルさん……」
「うん」

 呆然と直島を見つめた。
 直島は不思議そうな顔をした。

「何?」

 大島学がなぜ直島にカレーを振る舞ったのか。
 それは直島のメガネを取った姿を見たかったから、かもしれない。

 

 食事を終えると、直島は片付けをして早々に帰っていった。
 夕食後の作業は進みが悪かった。疲れはピーク。空腹は満たされた。体は休みを要求していた。凝り固まった筋肉をほぐすため、大きく伸びをした。

「そろそろ帰るわ……もう二十三時だし」
「あれ、もうそんな時間?」

 湖夏が顔を上げた。眉間に深いしわが寄っている。湖夏はスパイスの魔力にも負けず、高い集中力を維持していた。美作は湖夏の作業途中のモニターを覗き込んだ。

「進みましたね、こなっち」

 湖夏は何でもない様子で、こきりと肩を鳴らした。

「まあ、そこそこね……でもケン・クマモトはまだ何にも変わってない」

 画面の中のピンク色の熊は、相変わらず寝ぼけたようなしまりのない顔で、和室をうろうろしていた。

「あぁ……疲れた……帰るの面倒くさ……」

 カバンを引っつかみ、あくびを噛み殺しながら玄関に向かった。

「やっぱりハルさんも泊まっていきます? お布団ならありますよ」
「だからそんなわけにはいかんだろ」
「私たちもそろそろ終わりにしようか」

 そう言って、湖夏は椅子から立ち上がり、思い切り伸びをした。

「お風呂用意しますね。その前にごはん。NAGIちゃんのカレーを食べてください」
「うん、ありがとう。あ、それより、何か手伝うことある?」
「大丈夫です。私の家ですから。こなっちはのんびりしていてください」

 何気ないふたりのやりとりをいつまでも聞いていたかったけれど、明日も早い。後ろ髪引かれる思いで美作の部屋を後にした。

「それじゃまた明日」

 と声をかけて、玄関を開けた。

「お気をつけて」
「ばいばーい」

 美作と湖夏はドアの向こうでひらひらと手を振った。

 

 自転車に跨り、夜の田園の中を走った。道沿いの灯が、行先を明るく照らしていた。山を越えてやってくる夜風が、ひんやりとして気持ちが良かった。
 勉強会の時もそうだった。ひとりで集中してやったほうが効率が良いだろうと、そう思っていた。しかし、実際にはそううまくいかない。元来、時間を使うのが下手なのだ。そんな自分でも集中力を維持することができる。これは大きな発見なんじゃないか。空にぽっかりと浮かぶ月をみながら、なんだか叫び出したいようなくすぐったい気持ちになった。

(つづく)

著者:穂高正弘(ほだかまさひろ)

キャラクターデザイン:はねこと

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