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2017.03.14

はるかの星【第24回】

はるか 矢立文庫


  大宮の駅はいつもと変わらぬ喧騒で包まれていた。すっかり陽の落ちた駅前の広場は、商店街のネオンや、タクシーのヘッドライトでまるで日中のようにライトアップされている。しかし、ひとたび上を見上げれば、吸い込まれそうなほど何も無い黒い黒い夜空が広がっている。星も見えない。
 私は迷わず全力で走った。

 リミットまで、残り40分。

 いつもなら、駅から向かいの百貨店、あるいはデパートまで蜘蛛の巣状につながっている白いスロープを歩き、夕飯の買い物を済ませたおばちゃんの後ろを、ぶつからないように歩幅を合わせながらバス停まで向かったことだろう。その道すがらにあるお店の壁に大きく表示されているデジタル時計をみて、あぁ、そろそろドラマの時間だな、とか思いを馳せてバスを待っている自分が、眼下に広がるバスロータリーの一角にいるはずだった。

 今日も、そんな帰り道を一人、いつもどおり歩くのだとばかり思っていた。

 駅前からつながる大きな一本道。高速バスの停留所、スーツケースを引きずり歩くOLの肩をかすめ、青信号が点滅しだした信号を一気に跳びぬける。予備校の横、これから夜の授業を受けるのであろう学生の合間を縫って、渋滞にはまってしまったタクシーを追い越し、走り幅跳びで今まで記録したことのないほどの跳躍を見せながら、矢継ぎ早に設置されている横断歩道を飛び越えて、私は走った。
 私の視界に入っては消えていく車のテールランプや街のネオンは、暗い空の効果もあいまってか、走馬灯のイメージを私に想起させた。走馬灯だなんて縁起でもない。邪念を振り払うように目をぐっとつむる。目指す病院はもう、すぐそこだ。

 日の落ちた病院のエントランスは、受付だけが微かな明かりを灯している。他に頼りになる光源は、非常出口を知らせるために、私同様必死に走っている緑の非常口案内看板と、スロープを照らす青いフットライトだけだ。受付の壁には大きな時計がかけられており、右に左に、振り子を揺らしながら時を刻んでいる。時間は、21時29分。私の時計と、同じ時間を示している。
 休憩なしに駆けてきたせいで、ホール中央にさし当たったあたりで、私のひざが音もなく崩れた。

「あなた、大丈夫?」

 走ることに夢中だった私は、ゴール地点で息も絶え絶えになっていた。ゼェハァいいながら両膝に手をつき、下を向いたまま今にも崩れ落ちそうな女の子が目の前にいれば、ナースでなくとも心配して声をかけるだろう。逆の立場でもそうする。

「こんな時間にどうしたの?」

 腰を下ろし、目線を合わせようと覗き込むが、私の表情まで伺うことはできないだろう。

「お、おかぁ……さん……」

 リズムが整わない中で必死に声を絞り出そうとするがうまくいかない。呼吸が必要、酸素が必要、何より今現在の感情の整理が必要な私は、やはりうまくしゃべることができなかった。汗なのか、鼻水なのか、何なのかわからないしずくが頬を伝っては流れ落ちていく。吸い込んだ空気が水になって全部出て行ってしまうくらい、私の体の機能は限界に来ていた。こんなひどい顔を他人には見られたくないな。いっそこのまま、ずっと下を向いていたい。すこしでも圧力がかかれば崩れ落ちてしまう私の背中に、優しくそっと手を添えてくれた彼女は、ゆっくりとしたペースで背中をさすってくれた。

「だ、だいじょ、うぶ」

 ゆっくり深呼吸を繰り返して呼吸を整える。依然として頬を流れるしずくは後を絶たないが、今ははっきりと自分の目で彼女を見て、もう一度彼女の問いに答えた。

「私の、お母さん。迎えに来ました」

 手術室まで伸びている長い廊下は青色の非常灯にうっすらと照らされて、不気味な雰囲気を醸し出していた。外からの光はなく、どこまでも続いていそうに曲がる廊下が、私の足音を飲み込んでいく。
 突き当りを曲がって、たどり着いた行き止まり。西方大宮病院の手術室。ほんの数時間前にも来たのだが、昼と夜とでは、雰囲気が180度違って見える。『手術中』とかいてある赤色灯が、青い非常灯の弱々しい光を打ち消して、その重苦しさをよりいっそう際立たせている。
 遅れて到着したナースが異変に気づき、急いで角にあったここ一帯の電気の電源ボタンを付ける。しかし、いくら右へ左へスイッチを入れても、蛍光灯がその明るさで皆を照らすことはなかった。

「ごめんなさい、電球、切れちゃってるみたいね。ちょっと待ってて、すぐ代えるから」

 私の後ろでいそいそと方向転換をし、小走りでかけていくナースを振り返ることはなく、私は、弟の背中だけを見ていた。顔をうつむけたまま、ピクリとも動かない。
 夢中で走っているときは気がつかなかったが、ここまで到達する時間は、まさに光のごとき速さで過ぎていた。学校を出て約1時間。いつもなら早く家に帰ってお風呂に入り、雑誌を読んだり、馬鹿話に華を咲かせて寝ていたんだろうに。1時間はあっという間にすぎてしまうものなのに。秒針が刻むリズムがどんどん遅くなっていく感覚。目の前の現実が嫌で嫌でしょうがない自分が、時を遅くしている。
 わずか1分にも満たない沈黙は、私にとっては悠久の時のように思えてならなかった。

「……かあさん、あぶないんだって」

 顔をなくしたワタルが、ボソッとつぶやいた。

「見たことも無い器具がいっぱい入っていってさ。急になんだもんなぁ……おんなじ病院にいるのに、オレ、さっき知って……」
「ワタル……」
「祥子さんも、婆ちゃんたち連れてくるために出てっちゃって。……俺一人になっちゃって、何も……なに、もでき、なぐて……」

 ぼやけていく視界。ワタルの大きな手が彼の頭を抱えている。支えていないと崩れ落ちてしまいそう。こんな大きな体、支えているだけでも辛そう。

「がぁあさん……し、しんじゃうのかなぁ……」

 湧き出てくる涙をせき止めてくれるものはない。自分の涙を受けるはずの両手は、自分自身を支えるので精一杯なんだ。それでも、ワタルはめげずにここにいる。私だって笑ってる膝を鞭打ってここまで来たんだ。
 お姉さんなんだろ、私!
 ぼやけていたのは夏の湿気のせいではない。私もまた目尻に涙を溜め込んでいたから。うっすら曇りがかった視界を拭い、精一杯の精神力を込めて、ワタルに話しかける。自分に、話しかけるように。

「何があっても、あきらめない。中途半端は一番駄目。最後まで、しっかり祈りなさい」

 でも、私は無力だ。何度自分を奮い立たせても、結局は誰の力にもなれない。ワタルを励ますこと、お母さんの無事を祈ること。ソレをしたところで、現状はすぐには好転してくれない。
 私もついに、立っていられなくなってしまった。糸が切れた操り人形のように、くたっとその場にへたり込む。なにもかもが、重くのしかかってくる。一気に全身の力が抜けていくのがわかる。私を奮い立たせる言葉を、心の中で何度も、何度も何度も繰り返す。

 あきらめたら、駄目。

 お母さんは、まだ戦っているんだ。私たちが泣いてばっかりでどうする。自然に悲しみに反応してしまう体とは裏腹に、私は、私の中で奮い立つ気持ちを必死に前へと押し出した。
 それは、小さな祈りだったかもしれない。今さら何にすがる? 神様がいるんだったら、願いを叶えてよ。お母さんを救いたい。

 もう誰も失わない!

 失いたくない!

 誰か……助けて。

 嗚咽と、咳に支配されていた重苦しい空間に響く、携帯電話の着信音。聞きなれない無機質なメロディが、不意に私を現実世界へと引き戻した。ここが、精密機器を使う病院なら圏外のはず。そもそも電話に出ていいはずがない。しかし、思考回路が完全にショートしていた私の右手は、なんのためらいもなく、電話機の応答ボタンを押していた。

 着信は、栄太からだった。

「オレだ、佐々木だ。皆藤、聞こえてるか? おまえの星の縮小が急激に速くなった。このままだと、小さくなって一回星は消滅しちまう。そういうプログラムなんだ、コレ。そもそものプログラムを書き換えてしまうと、他の人にも影響が出る上、俺たちがハッカー扱いされてしまうことになる。最善は尽くした」

 栄太は半ばまくし立てるように現状の報告を入れてきた。なんにせよ、私には人の言葉を聞ける能力がまだ残っていることに、自分自身気づかされた。まだ、動けるんだ、私。

「私は……」

 依然として整理のつかない私の心は、うまく話すことはできない。

「おまえは祈ったのか?」
「え?」
「元凶は俺たちで断った。あとは皆藤、お前次第だ」
「……」
「にわかには信じない。けどな、願いが叶う星……だったっけか? 祈っててみろよ、お前の願いを。『はるかの星』に、さ」

「私の……星……?」

「待ってるからな」

 会話が途絶え静まり返る廊下に月明かりがかすかに差し込み始めた。ここへ来るときは厚い雲に覆われていて見えなかった月が、遅れを詫びるかのように窓越しに顔を見せる。うなだれた右手に握られていたケータイのディスプレイは、21時40分を表示している。慌ただしく出入りしていく看護婦さんたち。両手に抱えきれないほどの布と機材を持って、入っては出てを繰り返している。もはや私たち二人の存在など眼中にはないらしく、彼女らもまた、一人の人間の命を救おうと、必死に戦っていた。
 足がぶつかり、バランスを崩してケータイを落としてしまう。ディスプレイから漏れる光が、私とワタルを照らし出す。なにかが心の奥底から湧き上がってくる。

 私の思いを、星に託す。

「ワタル……ここで、待ってて。お母さんに、ついていてあげて」

 タイムリミット20分前。私はなにかに突き動かされるように、すでに立ち上がり、歩みを始めていた。揺れる膝を必死に押さえながら、体を縦に横に揺らしながら、全力で廊下を駆けている。
 恐らく、あそこならあるはず。1台くらいなら、あるはずなんだ。
 足音の慌ただしい一角を抜け、もと来たエントランスホールに出る。依然として外は暗いまま。しかし、私を待っていたかのように、明るい光がついている場所があった。なんの躊躇もなく、私はそこへ駆け寄る。明るい光に誘われる夜光虫の様に、私はあるものを探して光の中へと飛び込んだ。

「あ、部外者は立ち入り禁止よ。いったいどうしたの!?」

 自分がどんな顔をして立っていたのかは想像もできない。よっぽどひどい顔でもしていたのか、注意してきたナースのお姉さんが蛍光灯を両手でしっかり抱きしめたまま固まっている。
 違う、違うんです。
 別に襲おうとかそういうつもりはなくて……心の中でそう反芻しながらも、私の、恐らく血走っていたであろう両目はあるものを捉えようと必死に右往左往していた。
 2、3回見回したところで、私の目がそれを捉えた。事務関連に使う専用パソコンではない、ノート型の端末。しっかりケーブルでつながれたソレは、身震いしているナースの後方、暗がりの中のテーブルでまばゆい光を放っていた。

「お願いです、ちょっとだけでいいんです。あのパソコン、貸してもらえませんか?」

 突然の申し出に彼女は、ただオロオロと私と同じように周りを見渡している。

「お願いします!」

 私の強い押しに勢い負けして、彼女は道をあけてくれた。依然その眼差しは懐疑と不安に満ちたものだったが、もうそんなことは関係ない。

「ありがとう」

 やっと顔が元に戻ったかな。自分の口元が緩む感じがようやくわかった。

 再びアクセスした私の星は、石くずに成り果てていた。

 『LEO軌道、第002021148番銀河系AI惑星』――それがこのサイト内での私の星、『はるかの星』の正式な番号。そこに、いつもどおり私のアカウントでアクセスすれば、賑やかな星が眺められるはずだった。
 しかし、私の星は、見たこともないくらい小さくなってしまっている。あの大きな大陸も、海も、やたらでかいコンビニも鉄道も、全てなくなってしまっていた。ウソやでたらめが書き込まれていた日記はもう存在していない。いたずらに酷使された「はるかの星」は、疲れきってしぼんでしまっていた。

 残っている記事に目を通す。アイに誘われて初めて書き込んだ日記。バイト代で初めて買った洋服、お母さんと出かけた思い出、里佳子ちゃんとの出会い、アイとの痴話喧嘩……ほんの数週間前に私が書いた、本当になった、ウソの記事たち。悪気はなかった、と胸を張っては言えない。本当になったらいいなと、お遊び半分で書いた、かわいそうな思い出が今も履歴に残っている。

 でも、もし今でも私が書いたことが本当になるのなら、最後にひとつ、願い事を叶えて。

 私の惑星、『はるかの星』に託す、最後のお願い。

「……も、もう、ウソはつきま、せん……

 だから、お母さんを……

 お母さんを、助けてぇ!」

著者:クゲアキラ

イラスト:奥野裕輔

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