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- インタビュー
【第02回】リバイバル連載:サンライズ創業30周年企画「アトムの遺伝子 ガンダムの夢」
その2「こころざしはないっ!」
打ち合わせの席で「お目付け役」と言ってニヤリと笑ったのは[廣瀬和好]と言う男だった。バルクと言う得体の知れない極小プロダクションの主宰者で、まあ旧知の間柄と言ってよい。
「ふ~ん、お目付け役ねえ」と胡乱な目をする私に浅井鋼鉄女史は顔色一つ変えず、
「いえ、用心棒です。高橋さんも協力者がいたほうが何かと心強いでしょう」ときっぱりと言った。やっぱり信用されていないらしい。でも浅井君は廣瀬君のことを知らないな。
――雇ったほうが用心しなきゃならねえ用心棒だっているんだぜ――
と私はどこかで聞いたようなセリフを胸のうちで呟いたが、表面はあくまで恬淡とした風を装い、
「助かるよおー。あの頃の空気を知ってる数少ない一人だものー」とか適当なこと言ってやり過ごした。
やがて当企画を統括するネットワーク開発部の宮河部長、デスクの安蒜氏を加えて打合せは始まった。打合せ自体は和気藹々と、懐かし話、よた話、苦労話や失敗談など等、楽しいものであったが肝心の企画の仕立てや進め方になるとなかなか具体論が出てこない。そうこうするうちに宮河部長は本社の会議に去りデスクの安蒜氏も差し迫った自分の仕事に戻った。さらに時間が経過しきっぱり女史の顔が険しくなった頃廣瀬君が、
「あのお……とりあえず、会うのがいいんじゃないですかねえ」
と言い出した。
「誰にぃ?」
と言う私に、
「創業者たち、それと、その他にもその時代にサンライズと濃く付き合いのあった演出やアニメーター、まあ諸々の人達にですよ」
間髪を入れず浅井女史が賛意と同時に決定を下した。
「それ、いいですね。そうしましょう。では……」
とメモを取る体勢を取り私の顔をきっと見つめた。
「ではって?」
「お会いしたい方々にアポイントを取ります。とりあえずお会いしたい人のお名前を言ってください」
「うーん、会いたい人ねえ……会いたいかどうかは置くとして、まず創業の7人」
「お名前を言ってください」
「あ、そうかあ、浅井さんの世代だと創業の7人と言っても、もう知らないんだね」
私はいまさらながらに月日の足の速さに気づいた。創業者がサンライズを離れて8年の歳月が経っていた。
「ええと、伊藤昌典、山浦栄二、岩崎正美……」
ここまであげて私の言葉はまた止まってしまった。
「どうかしましたか?」
いぶかしげな目を向ける浅井女史に、
「いや、とりあえず創業者はその三人でいいや、その他に富野由悠季、安彦良和、大河原邦男、丸山正夫……あ、マッドハウスの社長ね、それからスタジオユニの半藤克美、作画の金山明博、佐々門信芳、ライターの鈴木良武、星山博之……」
私は数十人名を次々に上げた。メモを取り終えた浅井女史は、
「この方々へのアポイントは早急に取ります。高橋さんはシリーズの構成を、ええ……と」
浅井女史はちらりと天井を睨んで計算し、
「三日後までにお願いします」
ときっぱりと宣告した。
「廣瀬君、飯でも食っていこうか」
部屋を出る私達の背中に、
「企画書に付ける前文は明日朝私の出社までにはメールお願いします。廣瀬さん、今夜はほどほどにしてください」
と浅井女史のきっちりとした牽制球が投げられた。
きっちり女史のやることは素早く確実、仮借がない。二日後には創業者の一人『山浦栄二』氏と会うことになった。
志なんて無かった……!
食べるのに必死だった
山浦「ええー!? ここー? なんだか話しにくいなあ!」
本社ビル三階の会議室に設えられたインタビューの場に現れた山浦氏の第一声はこうだった。場にはカメラマンは居るわ立会いは居るわだから無理もない。
簡単に企画の趣旨を説明し、
高橋「と言うわけで、創業の志が成就するまでの諸々を・・・・ま、話していただこうと、まずは、そうですね、創業時の大いなる志あたりから聞かせていただければと・・・・」
と水を向けた。
山浦「ん? 創業の志?」
高橋「ええ、気負いも含めてその大いなる志を一発披露していただきたいと」
場の全員の期待のなかで発せられた山浦氏のその第一声は情けなくも衝撃的というか、身も蓋も無いというか、こうだった。
山浦「志なんて無いよー! ただ食べていくのに必死」
高橋「……」
にわかインタビューアーの私としてはのっけから躓いてしまった。こうアッケラカンと言われてしまうと、ねえ……。
高橋「志は……無かった、と……」
山浦「ないない」
困っちゃうよなあ、『ないない』ってこっちにも都合があるんだからと思いながら回りのスタッフの顔色を見回すが、きっぱり女史はきっぱり見つめるだけだし用心棒の廣瀬君は、さあどうする? てな顔でニヤニヤしているだけだし、そうこうする間もカメラとテレコはむなしく回り続けているしで……、
――しかたが無い方針変えるか――
と気を取り直して、
高橋「それじゃまあ創業のいきさつと言うところ辺りを……」
と質問を変える。
山浦「まあ、なんだ、あの頃・・・・今の状況からすると考えられないかもしれないけど、アニメーションと言うのはさ、貧乏で、俺流の悪い言葉で言えば賎民産業でさ……食っていけるかどうか五里夢中な時代なわけ」
高橋「ふむふむ」
こんな感じでインタビューは始まった。
虫プロの頃は
丼勘定でやっていた
山浦「つぶれそうな虫プロのあの最後の頃、俺、役員秘書というのをさせられてて……虫プロって言うのはそれまで、なんて言ったらいいのか丼勘定でやってたから、例えば『ジャングル大帝』一本が幾らの予算で、幾ら掛かって、結果どうだったかなんてまったく分からなかった。それから、個人的な給料は社員だからなんだけど、よくやる人とやらない人との差って言うのも分からない、まったくの丼勘定だったの」
ま、私も虫プロの中にいたのでその辺のことは肌で感じていた。なにしろ給料が安いからって文句言い続けたら年に五回も昇給したと言う人もいるかと思うと、何にも言わなければ年一度のわずかな定期昇給だけというでたらめさがあった。半年間給料日しか出社しないという社員もいたのだ。
山浦「しばらく役員の傍らで会社の内情を見続けた俺の結論としては、役員が全部辞めて管理職が全部辞めて、一日動画を10枚描く人と100枚描く人との差をきちっと捉まえる。これしか会社が存続する道はないってことね。これは当時の中堅層みんなの結論も同じなわけ……で、当時の社長にそう進言したんだ」
高橋「ほう」
山浦「そうしたら、それは自分の哲学としてできないって言われちゃった」
高橋「当時の社長と言うのは、バタやん、川畑さんですよね」
山浦「うん。そのお……思想ってことで括ちゃっていいのか悪いのか判らないけど、バタさんてやっぱり右翼か左翼かっていったら左翼だよね。左翼系の人は不合理な経営陣の退陣っていうのは待ってましたの方じゃない。ところが、バタさんはただ一人の人も切れない、役員もヒラも……ま、そういう情緒的な経営者の判断……」
山浦氏と言うのはその風貌ややや落ち着きを欠く言動などから一般的に非常に情動的と思われる向きがあるが、私はかねがねその本質は理系の非常に大雑把ではあるが大づかみに数値的な人だと思っていたが、どうやらそう狂いはなかったようである。
山浦「いや、要するに虫プロを再建せにゃいかん、つぶしちゃいかん、と言う思いがあって……ま、ともかくやることなすことムチャクチャだからね。例えば、映画を作るって何億円かもらってきて、何もしないうちに使い切っちゃう。フジテレビに行ってテレビの52本契約してきて、まだ放映も開始していないのに52本分全部お金もらっちゃう。それ全部が丼勘定だからわけ分かんない。とてもじゃないけど何処かでパンクすると!」
山浦氏は当時を思い出してか次第に興奮してきて、私は虫プロ時代の話がどこまで続くか心配になり、
高橋「ま、結局はすったもんだあったが、株式会社が頭につくかお尻につくかの変更があって、今の伊藤叡社長のもと再建が果たされたが、サンライズ創業メンバーはその再建には参加せず新天地を求めたと……こういうことですか」
と話の方向を変えようとするがかえってそれが火に油を注いでしまった。
山浦「苦労はあったろうけど今ある虫プロダクション株式会社は、あれは組合管理だからね、あれは会社を再建したんじゃなくって、組合員が残って資産というか、フィルムなどのまあ労働者の権利みたいのを保全したと言う、大半はあの時やめていったんだ。それで機材も残っていたから、例えばカメラとか、で、細々と撮影の下請けなどをやってね。だけどもう、ヘンな言い方じゃないけど手塚さん! 手塚さんなんか一番可哀想だったね、あれで全財産なくしたんだから、そりゃあ今のお金にして何百億だろうと思うよー!」
――何百億は大げさでしょう――
と思ったが正確を期する話ではないからやり過ごすことにする。
サンライズの創業
反面教師は虫プロ
山浦「そりゃあもう、個人的な意見ではあるけど日本のアニメーションって言うものがここまで来た下地を作ったと言う意味では、たぶん東映動画よりよりなにより手塚さんが大恩人なんじゃないかね」
そろそろサンライズの創業の話に戻ってほしいと願う私としては、また水を向ける。
高橋「あの、サンライズを創業する人たちには虫プロの役員は一人もいなかったんですよね」
山浦「いない、誰もいない」
高橋「役員ではなかった、経営にはタッチできなかった。でも経営の内側が見える位置にはいたと?」
山浦「いた」
高橋「プロダクション経営を分析する力はあったと」
山浦「あった……あ、いやいや少しはね」
謙虚になったところでそろそろ本題にと、
高橋「それが、サンライズの経営に相当な力に……」とさらに誘導を図るが山浦氏の当時への思いは止まらない。
山浦「俺はいろんなところからそうとう突っつかれたなあ。俺はこんな性格だから可笑しなことがありゃあどんなところでもケラケラ笑うわな」
――お、竹下調になってきたな――
山浦「火曜会の会報に、こんなとき山浦は道でケラケラ笑いやがってっと書いてある。ドタマきたね。でも、何が一番嫌われたかって言うと……」
山浦氏はときおり偽悪ぶるところがある。山浦さんぐらい嫌われない人もめずらしいのに、ま、チャチを入れてもしょうがないから黙って聞くことにする。
山浦「採算性を取ったときね。一日原画を10カットやる人と、1カットもやれない人もいるわけだわな」
高橋「山浦さん、その、だわなっての止めましょう」
山浦「!? あっそう。ま、ともかくアニメーションの持ってる非常に辛いところは“量と質”との問題でね。ものを作ってると必ずみんな量より質っていいだすんだよ。このサンライズでも経験したことだけど、スケジュールに追われて韓国に下請けに出すのね。韓国の原画マンは映画用のカットを一人一日で1カットづつ上げて来る。ところが国内の原画マンに出すと、30日に1カット上がってくる。現場のプロデューサーや監督が言うんだ、山浦さん見てください国内の原画のほうがほらこんなにいいんですよって、当たり前だよね1日と30日を比べるほうがどだいムチャなんだ。要は、遊びでやっているのかビジネスでやっているのかっていうのね、ここんところだよ。虫プロって言うのはそこが決定的に欠落していた」
高橋「うーん、なるほど」
山浦「まあ、虫プロって言うのはビジネスではなかったんじゃないかね。手塚さんの持っているノーテンキさ、あの人が持っている夢みたいなもの……でも手塚さんは潔かったよ、全財産なくしたわけだから」
高橋「今で言えば何百億!」
山浦「えー! そんなにはいかないんじゃない、いくらなんでも」
――これだよ! 山浦さん自分で言ったんじゃない!――
ま、こんなことは正確を期する問題じゃないから、むしろ性格の問題だからどうでもいいとして。
高橋「山浦さんは最初東映動画に就職してカメラマンやって、やがて虫プロに来た。つまり、まあテーマに関わることなのですが、サンライズはどっちの遺伝子を強く引き継いでいるんですかね?」
山浦氏は躊躇なく答えた。
山浦「虫プロだろうね」
だがすぐに付け足した。
山浦「うーん、ただ反面教師でもあるんだね。……手塚治虫は天才だよね。でも俺たちは言ってみれば一般人だ。だから経営して生き残っていくのはどういう事かと言うのはあった。虫プロでやってたことをやっていたら絶対経営していけないと、したがって反面教師」
高橋「経営的側面では、あれではダメだと」
山浦「それはハッキリしている」
高橋「で、虫プロ以外に生きる道を求めたのがサンライズ創業となった」
山浦「そう、でもスカラカンなわけ、お金なんか全然ないんだから。それで縁あって東北新社に設立資金を半分出してもらって、残りを俺たち7人が、1人10万いくかいかないかの金を絞り出して……この辺の正確なところは伊藤ちゃんに聞いてよ。それでよたよたと始めたって言うわけ」
株式会社創映社と
有限会社サンライズスタジオ
この時点では創業の7人が設立した組織名は『株式会社創映社』であり、その生産工場としての『有限会社サンライズスタジオ』は同時期に別に組織された。だから現在の(株)サンライズではないのだが、実質的にはサンライズはこの時点から始まっていると私は思うわけで……この辺りの正確かつ詳細な事実関係はあとで追うことにする。
山浦「夢をもってとか言うけど、そりゃあないわけではないけど現実に置かれているところはそんなに甘いもんじゃないわけよ、ハッキリ言ってどうやって生き残ろうかそれだけなんだから」
創業第一回作品は1972年10月放送開始の『ハゼドン』でこれはどうやら虫プロからの付き合いのフジテレビの御祝儀作品であったらしい。山浦氏の話はすぐ『ゼロテスター』企画時に飛んだ。
山浦「でゼロテスターを企画した。その頃生き残っていくのにひとつだけあったのが、スポンサーにお金出してもらって提供してもらうと言う方法……だってテレビ局へ行って仕事くださいと言ったってくれるわけないもの当時。だから局を口説くよりスポンサーが喜ぶ企画、マーチャンのからむ企画っていうのが全てだったね」 高橋「それは結局、現実的な選択だった、と」
山浦「それしかなかった」
高橋「で、その辺りのことがたぶんサンライズのポジションを決めたと言うか、まあ、みんなの知りたいところなんですが、志と言うか、予見性というか、将来への戦略と言うか、行く先の方針を立てるというか、あったんでしょう」
私は期待を込めて言葉を並べたが、山浦氏の答えはサラリとしたものだった。
山浦「あんまりなかったなあ」
どうもカッコウのつくセリフが返ってこない。10年先を見通してね、方針を立てたんだ。くらいの言葉が欲しいのであるが、そうならない。
高橋「今のサンライズの位置づけって、日本のなかでは有数のオリジナル・アニメーションを製作するプロダクションと言うことですよね。世評ではオリジナル・アニメーションを作るメリットを最大限に生かすために創業され、そして運営され、結果を出したと言われていますが……だけど事実は、現実が目の前にあって、目指すと言うことではなかったと」 山浦「目指すとか何とかと言うより、何とかスポンサーに売り込まなければ次に行けないんだから」
高橋「目指したと言うより,それしか選択肢がなかったと」
山浦「と言うよりもそれしか生きていく術がなかったと言ってるだよ。その流れに身を任せるしかね」
多少くどいこの辺りのやり取りを勘弁してください。まあ私としてもぜひ聞いておきたいところではあったものですから……ふと視線をめぐらすと用心棒の廣瀬君も浅井女史も、先へ進んで先へ、と言う顔をしている。んじゃまあ、と言うことで
高橋「創業時山浦さんは何をしていたんですか、つまり分担として?」
と次の話題に振ると山浦氏の顔が輝いた。
山浦「企画! 企画やるの俺しかいなかったから」
と言った。 と言うわけで次週はサンライズオリジナル作品の企画の諸々ばなしを……。
【予告】
次回も続けて(株)エムイーエス専務取締役:山浦栄二氏の登場!! 創業者の一人であり、数多くのサンライズ作品のプランナー。実質的なプロデューサーと言える山浦氏にサンライズ・オリジナミル作品群のプランニング秘話を熱く語ってもらった。乞うご期待!
【リョウスケ脚注】
廣瀬和好
ゼロテスターのとき色指定のアシスタントをしていた。当時まだ10代であったが妙に小生意気な雰囲気を漂わせていて、侮れんぞコヤツと思わせるものがあった。その後私が立ち上げた『スタジオあかばんてん』にいつの間にか潜り込み、そこで今では伝説となっているアニメと特撮のグラフィック専門誌『ファントーシュ』を発刊する。私の記憶するところではその種の雑誌としては日本で最初である。その後フィルムコミックなどを創案し不埒にも大儲けするが、案の定罰が当たったと見えて脳腫瘍などを患い大手術を受ける羽目になるが、ゾンビのように復活し今また私の目の前にいる。ま、お互い身体には気をつけよう。
どこかで聞いたようなセリフ
ご存知黒澤明監督の『用心棒』の中で、三船敏郎ふんする浪人が東野英治郎扮する一膳飯屋の親父に言うセリフ。この一作で日本の時代劇が変わってしまった。
山浦栄二
その昔この人の体重が98キロもあった時私の体重は58キロだった。今では私は74キロで氏は65キロ。この体重の推移がお互いの人生の過ごし方を物語っているか……。私がアニメーションを去ろうとしていたのを強引に引き戻してくれた、ある意味の恩人。サンライズの第三代社長である前に酒仲間でありゴルフ仲間であり馬仲間でもある。これと言って欠点のない人だが、どんな高価なスーツやネクタイを締めていても食べ物をポロポロペチャペチャこぼすのは、どうにかなりませんかね。奥さんが泣いています。
川畑さん
フルネームを[川畑栄一]さんと言う。高橋が入社したときにはご病気で休んでいらした。だから川畑さん‥‥この頃は先輩たちはみんな“畑さん”もしくは“畑やん”と呼んでいた‥‥その畑さんにお会いしたのは入社後2、3ヶ月を経った時である。なんとなく味のある自家製のたくわんみたいな人だった。優しい人で、[悟空の大冒険]の演出時代1年間もサボって仕事をしない私を自宅に呼んで監督の杉井ギサブロー氏ともども親身に心配してくれたことを思い出す。どうにもこうにも人を突き放すと言うことが出来ない人で、手塚さんから虫プロの経営を引き継ぎ2代目社長となったのであるが、この優しさが裏目に出たことは間違いないところであろう。つまりはどんなに生産性のないスタッフでもリストラなんて死んでも出来ない人だった。私の結婚披露宴で杉井ギサブロー氏と共におかめとひょっとこに扮しパンツ一丁のちょっとエッチな裸踊りを披露してくれたのを思い出す。
火曜会
最初は親睦団体だったものがやがて労働組合にと発展し、現虫プロ再建の原動力となった。最初の火曜会委員長は飲む打つ買うの三拍子そろった豪傑で、人によれば生活破綻者とも言いますが、私のその方面の師匠でありました。現虫プロの伊藤叡社長は虫プロ崩壊時の火曜会委員長でありましたが、初代とは正反対で人格高潔の労働者の味方です。