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メゾン・ド・アームズ バシレイオン【第12回】
前回のあらすじ
エステラが帰ってきた。真世のすべての嗜好を把握するお手伝いさんエステラ。彼女の膝枕で耳かきをされながら、真世は両親の死をあらためて感じ、涙する。エステラの膝枕は真世にとって温もりと安らぎの陽だまりのような場所だった! ⇒ 第11回へ
「気づかなかったよ、ピピ……」
うしろ脚で立ち上がれば、自身の背丈の3回り程は大きいであろうアイリッシュ・ウルフハウンドをハンドストリッピングしていた静香は,ふと、巻き毛を摘まむ手を止め、
「露島君……だったんだって、あの人」
語りかけると、トリミングテーブルに四肢で立つその大型犬は、太い尻尾と長い舌を心地よさそうに揺らしながら、彼女におっとりとひと懐こい目を向けた。
当然だ、なにせ静香が知っている真世といえば、いわゆる肥満児の典型だったのだから。それこそ校内のマラソン大会で、皆がゴールし着替えすら終えたあとになってもまだ、歩くよりも遅い速度で息をあえがせながら必死にゴールを目指しているような。
「けど彼は私のこと……私の声、憶えてた……」
手を動かすのを忘れ思い返していると、ピピが催促し覆い被さってきた。「わっ!」と必死に全力で堪えるも、あえなく押し倒される。
「知らない人が見たら、子供が猛獣に襲われてるかと思うわね」
やれやれと笑う声が聞こえた。からだ全体で好意を表現しつつじゃれついてくるピピと闘いながら見上げれば、店長が、グルーミングを終えて気品を増しツンとすました、ふわふわのチンチラゴールデンを抱っこし立っている。
「グスタフ君終わったから、ピピちゃんは私が引き継ぐわ。平さんは受付で待ってらっしゃるお客さま、お願い出来る?」
「え? でも……」店長に助け起こされながら、全身ピピの毛まみれで立ち上がる。「私が接客に……目立つところに出ると、労働局とか基準監督署とかに勘違いされて、面倒臭いことが……」
「ご指名なの、あなたを」
まとったくせ毛を払っていた手を止め「?」と見れば、店長が顎に指を当てて記憶を辿っている。
「見かけないワンちゃんなんだけど」
新規の客だった。受付でカルテを作成している静香の前で、毛をくるくるとカールさせた華奢で愛らしいタイニープードルを、対照的に髪を短く刈り込んだ、大柄な体躯のスーツ姿の男性が、ぶ厚い胸の前にちょこんとだき抱えている。
「お名前は?」
「ハナと申します!」
見知らぬ人物だ。
「失礼ですが、ご指名を頂戴したと……どなたかからご紹介いただいたのでしょうか?」
「はい! フレッシュマートの草永さんから!」
静香はハッと全身を強張らせた。
「正確に申しますと、草永さんから、あなたがコンビニのお店の方に商品を配達するルート配送のお仕事をなさっているとお聞きしまして、うかがいましたら、そちらのお勤めの方はなにやらトラブルがあったご様子でお辞めになられたと!」
正確には、例の巨人が起立したあの夜のドタバタを体よく由とした、厄介払いの解雇だ。
「それでも御同僚の方から、フレッシュマート近くの6丁目のスーパーで、お総菜を作るお仕事も兼ねていらっしゃるとうかがったものですから、お邪魔しましたところ、そちらも人間関係のトラブルでお辞めに!」
こっちもクビだ。パートリーダーの自転車を一時的にでも失敬したことが、やはり問題とされてしまった。もちろん、彼女と主任が結託し、そう仕向けたのは言うまでもない。
「それからラブホテルの清掃!」
はじめての遅刻で一発アウトとは。
「自転車便!」
自前の自転車を利用する事が雇い入れの条件だったのだが、あの時チャージを忘れたせいか、静香の年季の入った愛車のバッテリーは、いまや8時間のフル充電で総走行可能距離30mという記録を叩き出す始末。
「工事現場の交通整理、美術館の絵画の警備、高層ビルの窓拭き、測量助手、化石発掘、発破技士、ひよこのオスメス鑑定、隕石ハンタ――—!」
こんな自分を雇ってくれる仕事などそうそうないと思っていたが、いやはやどうして、こうしてみると、なかなかに錚々たる職歴だ。
「そしてようやく、こちらのお店でお会いできたという訳です! 平静香さん!」
笑みとともに真正面から向けられている視線は、真っ直ぐ過ぎて、どこかザラリと逆なでされるような違和感を感じる。
「……どのようなご用件ですか?」
「とりあえずペットサロンにお勤めだと言うことで、これは好都合と、ついでにウチの子のシャンプーとトリミングをお願いしようかと!」
聞きたいのは『ついで』ではない方。
「……どちら様ですか? お名前をうかがっても?」
「ハナです!」
「……ご主人様の……」
「あ! これは! ご挨拶が遅れて失礼しました!」
抱えていた愛犬を降ろすと、男はスーツの内ポケットから飾り気ない合皮の名刺入れを取り出し、一枚を差し出した。恐る恐る受け取る。
「『夢・輝き・みらい庁』……?」
「大和田と申します!」
「私に、何か?」
「はい! 静香さん!」
大和田は見開いている目をいっそう大きくした。
「お父様とお母様はお元気でいらっしゃいますか!」
そうか――静香はようやく違和感の正体を突き止めた。目の前の男はずっと、瞬きをしていないのだ。
* * *
本来の真世の自宅同様、バシレイオン中においても、キッチンは彼の8畳半の直下に配置されていた。ピカピカのシンクに備え付けられている水栓から水が出ることを確認し、新品のコンロに火をつけガスが来ているのを確かめると、エステラは、「ふむ」と小さく鼻から息を吐き腰に手を当て、部屋の中を見回した。つい先日まで、街の家々の白壁が熱く眩く照り返す、地中海の陽に肌を焦がしていた身には、外殻装甲にて外殻から完全隔離されているバシレイオンの体内は息が詰まったが、まぁ、それを我慢するのも仕事のウチだ。
「サテ、と……」
真世に今まで通り、自分の世界の中で微塵の疑問も抱かず寛ぎ暮らして貰うには、本当なら自宅から食器などの日用品を回収すべきなのだろうが、その家は、バシレイオンがいま土台としている露島研究所を中心とした半径1.5km以内の立ち入り制限区域にあって、よほどの理由がない限り近づくことが出来ない(皿や茶碗を取りに帰りたいなどと言う理由なんぞもちろん論外だ)。
「ま、侵入しようと思えば簡単だけど、余計なコトしてヘタに目でもつけられたら馬鹿らしいし」
誰に言うともなく呟きつつ、なるべく似たものをと探し買い揃えた茶碗や皿や箸などを食器棚にしまいながら、エステラはふと、傍らに置いてある革の旅行トランクから、煙草の箱ほどの大きさの、地金が剥き出しになった真鍮製の箱を取り出した。薄青いパイロットランプが小さく点灯しているのを確認し、そのデバイスが正常作動を示しているのを確かめる。
「ラスパルマスがとっととコレを完成させてくれてれば、もっと早く戻って来れたのに……入国が遅くなった間に、なにか面倒な事でも起こってないといいんだケド」
案じながらそのデバイスをメイド服のポケットに忍ばせる。次いで彼女はトランクから、真新しく真白いフリル付きのエプロンを取り出しポンっと広げると、その紐を腰のうしろでリボンに結び、「デワ」と真世の夕食の準備に取りかかることにした。メニューは彼が大好きな海老フライとおからハンバーグの盛り合わせ。
「と、その前に」
エステラは、真世の8畳半から引き上げ調理スペースに置いておいた、冷たいトンカツの山に目をやると、やれやれと両の腕をまくり、よいしょとそれを抱えて――まだ空っぽで清潔なダストボックスに、いっきに投げ捨てた。
著者:ジョージ クープマン
キャライラスト:中村嘉宏
メカイラスト:鈴木雅久