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2022.10.01

【第20回】リバイバル連載:サンライズ創業30周年企画「アトムの遺伝子 ガンダムの夢」

その20「今が旬です、この5人。」
ゲストは、加瀬充子・杉島邦久・高松信司・赤根和樹・渡辺信一郎さん

アニメーションにあまり詳しくない友人などに会うと「アニメーションには国境もないし、老若男女誰でも楽しめる。幾つになっても現役でがんばれるんだから羨ましいよ」と言うようなことをよく言われます。まぁ‥‥宮崎さんや富野さんなどの活躍などを見ればそう思われるのも無理のないところではあります。しかし、個人差はあるとは言え、アニメの世界も働き盛りというものがあると私は考えておりまして、ことにサンライズ作品のような視聴者との関係が濃密なものは年齢が作品を左右する大きなファクターだと思われます。今回座談会に集まってくれた諸君などはその点まさに旬といえる面々でありまして、言うなればサンライズ出身花の中堅監督揃い踏みといったところでありましょうか。でも出るのはひょっとして愚痴ばっかりだったりして‥‥ヘへへ、大いに楽しみであります。

 

私は漫画家になりたかった(加瀬充子)

高橋良輔「何でアニメーション界に入ってきたかというのを聞きたいなと。不本意ながらということでいうと一番古手なんだよね。加瀬ちゃんがね」
加瀬充子「(笑)26歳です」
高橋「26歳かあ~(笑)。えー、ライディーン経験のある26歳です(笑)」
加瀬「アニメーションってよく知らなかったんですよ。地方って、せいぜい昔々の本にアニメの作り方みたいなのがあって、そういう本さえも手元にないような・・。あったのは漫画の本。私は漫画家になりたかった」
高橋「漫画家?」
加瀬「そうそう。自分で同人誌に入って漫画描いたりとかしてたんだけど、動かないじゃない。コマ割りだけじゃない。だけど、“アニメーションっていうのは面白いんだよ”っていうような。まあ、テレビ見てたから好きなアニメは結構あった。そのテレビでやってるのがテレビのアニメーションだっていう認識に繋がるのって高校ぐらいになってから。友達のお姉さんの旦那さんがアニメーション関係の人間だっていう情報が入ったんです。で、そういうふうなことがあったんで、その子と友達になってアニメーションの方に少し片寄ったのが高校ぐらいで・・。東京の方に来ようと思ったのはアニメーションをもうちょっと知りたいなって。で、学校に入って・・」

高橋「学校はアニメと近い学校だったの?」
加瀬「[東京デザイナー学院]に入って。あの頃は東京デザイナー学院と代々木と日本デザイナー学院ぐらいしかなかった。近くでね。地方の学校に東京デザイナー学院の学校紹介みたいなのがあってそれでアニメーション科があるって知って、2年間・・」
高橋「[あかばんてん]にも2人ぐらい東デ出身者がいたね。まあ、一応、学生時代から真っ直ぐここへ来たんだ」
加瀬「で、学校へ行くよりも、あかばんてんに遊びに行ったりとかサンライズに来たりとか(笑)。プロっていう意識じゃなくてアニメーションを制作している現場でお手伝いしてるって、そういうのが少し楽しいじゃないですか」 

 

20代、30代で自分たちの作りたいものが作れるかなと思って(赤根和樹)

高橋「赤根君は?」
赤根和樹「やっぱり小学校か中学校の時にヤマトがあるんですよ」
高橋「ヤマトね」
赤根「それがやっぱりアニメーションに対するカルチャーショックがずっと引っ張ってるんですよね。その後スピルバーグとかルーカスとかでハリウッド映画、ああいうエンタテインメントですよね。日本映画ってあの頃ATGとか結構せこい映画ばっかりだったので(笑)。だから、みんなが楽しめる映画を作りたいっていった時に舞台とか設定も時代劇じゃなくてファンタジーっぽい夢を見せてくれるものを・・」
高橋「ヤマトはアニメーションだけれども、実写とか、アニメーションとかっていうのはあんまり関係ない?」
赤根「ないんですよ。まあエンターテインメントというところで、そういうのを作りたいなとなって日本で考えたらアニメーションしかない。で、ガンダム・ボトムズ以降世代ですよね、自分らは。それをサンライズで見せてもらって、あっ、アニメーションでこういうのが出来るんだって。これから、これが主流になるんじゃないかなと(笑)。その時は勘違いしてた(笑)。アニメ=幼児物っていう概念が少し変わり出す、広い世代に対してアニメーションをつくっていく時代になるんじゃないかって。なんかあの頃ケーブルテレビがでてくる時代を予想してたんですよ。今CSとかBSとか‥‥ようはチャンネル数が増えてくると映像メディアをもっとつくらないといけなくなる。そうなってくると、俺たち若い世代が監督になるっていう可能性が強くなるんじゃないかって(笑)。当時、日本映画の監督ってもう50代以上、そういうのしかディレクターになれないじゃないですか。でも、アニメーションだったらもっと20代、30代で自分たちの作りたいものが作れるかなと思ってアニメーションというのに・・」
 

好きなことやって食べていけたらいいなあと思って(高松信司)
なんか面白そうなんでアルバイトでもないかなと思って(杉島邦久)

高橋「わりあい直結型だね。狙って入って来てるというところがあるね。高松君は?」
高松信司「赤根君とほとんど同じ時代なんで・・。やっぱり学生時代に意外とあの頃、自主制作映画ばやりだったんですよ。高校時代とか8ミリとか好きで回してて、大学いってそんなことばっかやってるんで、まあ、中退してしまって(笑)。行き場が無くなってしまって(笑)、で、フィルムの仕事したいなって。まあ、門戸を開いているのがアニメーションしかないし、好きなことやって食べていけたらなあと思ってアニメーションの世界に入ってきました」
杉島久「僕は全然違うタイプなんですよ。僕は元々は吉村作治さんみたいにエジプトへ行って墓堀を・・・・(笑)。だから、博物館学芸員の資格とか取って考古学の研究所に入ろうと思ったら“大学院いかないと駄目だ”って言われて・・大学院に入るのには200万円ぐらい掛かるって親に相談したら“うちはそんなお金は出せん”って(笑)、“取りあえず先生になっとけ”って言われて、じゃあ先生にでもなろうかって思ったら、その頃は丁度就職難でものすごく競争率が高くて。社会科なんですよ、社会科ってその時愛知県で3人しか募集なかったのに680人もきちゃって・・。で、落っこちて・・、卒業はしたんだけど仕事がないっていう状況になってどうしようかなって思ってる時に、当時ガンダムとか学生時代にやってたのを見て、なんか面白そうなんでアルバイトでもないかなあと思ってサンライズに訪ねて来て、現在に至ってます」
高橋「それも不思議だね(笑)」 

自分の望みと業界が受け入れる広さがあった時代

赤根「自分は就職試験受けたんですよ、サンライズで(笑)」
高橋「あの頃、たまに『選んでよ』とかそんなこと言われて入社試験の審査官もやったことがあるんだよね。僕が押したのナベシン(渡辺信一郎)なんだ。大体みんな『駄目だよ、これは』(笑)って、だから憶えている」
赤根「ナベシンと同期なんですよ」
高橋「そうだね。赤根君は僕が推薦したかどうかは忘れたけど名前で覚えている。名前に色があって面白いじゃんって(笑)」
高松「欠員があって途中で入ってきたんですけど、池部(茂 制作進行:当時)君と同じ日に入って岩崎さんが『じゃあ、君は1階で君は2階ね』(笑)って、あの白い建物で。で、1スタに行ったら山本(デスク:当時)さんがいて『えっ、新人が来るなんて聞いてないよ』(笑)、『ええーっ』って」
杉島「僕の時もサンライズって大らかで・・いきなり来ちゃったんですよ、地元が岐阜なもんですから。何のアポもとらずにいきなり東京出てきて上井草の駅から電話かけて『すみません、会社見学とかさせてもらえますか』って(笑)。当時、岩崎さんに“いきなり来られたってうちは駄目”って言われたんですけど、その時に事務をやってらした鈴木さんっていう方が“せっかくそんな遠くから来てくれたのに可哀想だから私が何とかしてあげるわよ”って」
高橋「経理の女の人ね」
杉島「ええ。あの人のおかげで今の私があると(笑)」
高松「えっ?! それで、そのまま入っちゃったの」
高橋「ナベシンだってわりあい直結型だよね。今、ここにいないけどね。面接では『僕はイデオンです』って」
赤根「そうですか。僕には絶対言わなかったですね。僕、アニメに興味無かったから(笑)・・みたいな」
高橋「ここに今4人だけど100人ぐらいに拡げてもあなた達と同世代の演出の人達って、多分平均して直結型が多いんだろうね。自分の望みと業界が受け入れる広さがあったっていう時代なんだよね」
赤根「少なくとも僕らの世代としてはもうアニメーションの成功っていうのが、アニメーションが映画でヒットしてて、社会的に認知され始めた時代なんで・・」
高橋「入口が拡がってたんだね・・。僕らの時はアニメはないに等しいし、映画に行きたくても5社は駄目でしょう。映画界っていうのはほとんど閉ざされてたよね」

およそ40年前[鉄腕アトム]が始まり、その後急速度で後続のテレビアニメーションやそのための製作プロダクションが誕生したが、その頃は、仮にアニメ界に入ってくる人が100人いたとすれば80人はアニメーション以外のことでやりたいことがありながら何らかの理由でそこにいけず、一時の雨宿りのような気分で流れ込んできた人が多かったように記憶している。そうは言っても、むろん希望は実写映画とか芝居とか、実写シナリオとか、ドキュメンタリーを撮りたいとか、テレビ局に入りたいとか、小説を書きたいとか‥‥ま、表現もしくは創作を目指していたというようなことでは同じようなタイプではありました。
やがて話は自然にお馴染みの“辛いよ、安いよ、暗いよ”の話に入っていった。 
 

1年に1人、2人残ればいいんじゃないかな


高松「あとね、この業界は大変安いって(笑)みんな知ってしまったんで・・。散々言われて、暗くて徹夜ばかりでギャラは安いって(笑)」
杉島「それは嘘じゃないですよ(笑)」
高松「(笑)嘘じゃないけど、知らなかった・・入った時こんなに大変だとは(笑)」
高橋「僕はね、大変だと思ったことってあんまりないんだよね。大変なことは瞬間的にはあるんだけどトータルして1年っていうとあんまり大変だっていう思いがない。きっとこの世界に体質が合っているんだね」
杉島「確かに入ったスタジオが富野(由悠季)さんのスタジオだったんで、そういう面に関しては辛かったですけど(笑)。でも、やってることが何か楽しかったし、1日中仕事してるんだから安くっても暮らせないわけじゃない(笑)」
加瀬「うん、生活に困るからとかいう話じゃないしね」
杉島「10万円なかったけど、お金残ったもんなあ(笑)」
高橋「それは、使う暇ないからね」
加瀬「辞めちゃう子多かったじゃないですか。制作でも3日しかいなかったとか、次の日には来なかったとか(笑)」
杉島「1年に1人、2人残ればいいんじゃないかな、今でも‥」

加瀬「すごい夢を持ってアニメーションの世界に入ってくるんだけど、1日で現実を知って辞めちゃう子と数日して現実分かってこのままじゃいけないっていう子と‥‥もしかするとこの人たちって普通のサラリーマンになったりお母さんになったりする子だと思うのね。じゃなくて人生この世界に入ってきて“自分が楽しければいいや”って思っちゃうと、いつまでもずっとぬるま湯の中でどろどろいるの」
高松「そういう意味でいうと物理的には辛いんだけど、ぬるま湯はぬるま湯ですからね(笑)」
加瀬「現実思ったら、例えば“自分の子供を大きくしなきゃいけない”と思うと今のギャラで生活できるのかって言われちゃうと怖いよー(笑)、めちゃめちゃ。だけど、それってそういうふうに思うとすごくどん詰まりに入っちゃうんだけど、“いいじゃん、毎年毎日ちゃんと生活できるんだから”(笑)とか、毎月毎月お金が入ってきて生活できるんだから“今月も大丈夫だったね”って思えばそれでいいかっていうふうな感じしてるんだけど」
赤根「一生こんなんだったら、もう死ぬかもしれない(笑)」
杉島「赤根君みたいに確固たる信念をもってて、現実にぶつかっても“チキショー負けるか”とか言ってやってける人と、もう“くにゃくにゃ”ってやっていく奴が生き残れて‥‥。最近入ってくる子で面白いのが、『僕、監督やりたいんです』って入ってくるのね。『まず、制作やって演出になって‥』って言うと『僕は制作も演出もやりたくないです』って(笑)言うんですよ。『それはどうかなあ、がんばってね』(笑)って言うしかしょうがないんですけど。そういう人はたいていすぐいなくなっちゃう」
高橋「いきなり監督といっても、監督というのを理解してないのは当たり前だとしても怖れってあるじゃない。知らないことに対する怖れって。想像力のなさすぎだよね」
赤根「どうしたらなれるんですかっていう子もいますよね。監督とかっていうのは憧れとしてはあって、だからその夢に向かってどうステップを踏んでいけばいいのかっていうのは、やっぱ普通の学校じゃ教えてもらえないから。ところで、[犬夜叉]ってデジタルになったの?」
加瀬「なる」
赤根「なった。塗るとこないですよ」
加瀬「版権もみんなデジタルだしね」
高橋「4月から始まる[アストロ・ボーイ/鉄腕アトム]はまだ塗ってるんじゃないかな」
高松「だんだん伝統芸術みたいな・・手作りとかっていう」
赤根「まだ、手で塗ってます・・みたいな」

アナログかデジタルか、と言う問題に関しては業界全体の正確なことは分からないが、サンライズだけに関して言うと[犬夜叉]が昨(2002)年11月末をもって全てデジタルに切り替わり、これでサンライズ作品は現行動いているものは全てデジタルである。よほどの特別な事情がない限り、量産されるテレビアニメにおいてセルアニメが復活することはあるまい。なお私が知る限りでは4月放映開始の[アストロ・ボーイ/鉄腕アトム]がアナログ率70パーセントで制作されているが、その他でアナログで制作されている作品と言うのをもう聞かない。‥‥うーん、それにしてもアトムがアナログ作品の最後の一つになるとは、なんか感慨深いものがあります。


加瀬「セルアニメはカメラとの距離感があって、“その距離感がすごくいいんだ”っていう人がいるじゃないですか」
赤根「今、あれを何とかしようと必死に頑張ってるけど、もうちょいかなあ」
高橋「でもああいうのって変わるよ。僕は最初の頃アニメーションでアクリルの絵の具がペタっとつくセル画の、あの無機質な質感がイヤだっだもの。それが、今はあれが暖か味があるって言われている。デジタルには違和感があると言うけど、慣れがあるよね。何れまた‥‥」
高松「あれで育っちゃうと、きっとあれでいいんじゃないですかね」
赤根「ゲームをずっと見てるとゲームが当たり前になって・・」
高松「若い子が昔のフィルムドラマとか見ると、なんか絵が暗くて汚いって(笑)。ビデオドラマに慣れちゃってるもんで、昔の70年代80年代のフィルムドラマを再放送でやるじゃないですか。それが“暗くて汚い”って」
加瀬「えっー、そうなんだ」
高松「これがいいんじゃない、フィルムの感じがいいんじゃないって(笑)」
高橋「でも、やっぱり大勢としては新しい方に移行するよね。僕もフィルムのカメラを、ほとんど趣味みたいなカメラをもってるんだけど、旅行でも記録でも最近はデジタル。100%デジタルだよ。やっぱり日常的なことはそっちの方が便利なんだ。だけど、もうひとつ趣味性っていったら、また別なんだよね」
加瀬「今の子たちってお金と時間がある子って多いじゃない。監督やりたいって言ってる子たちなんて、昔よりも楽に自分で自主制作って完全にできちゃう。フィルムとか考えなくていいじゃないですか。いくらでも撮り直しがきくし。昔は“このフィルム失敗したら全部駄目かい?”っていうのがあったのね、あの緊張感がなくなってるって感じで」
高橋「昔は玄人っていったら玄人の場にいられることがけっこう大変だった。才能があるかないかなんてことより、そこにいる、例えば松竹に入りました、東映に居ますってことが事実として大事だった。素人と玄人の境っていうのが無くなると怖いね。あとは問われるのは作品だけだものね」 
 

何故サンライズだったのか?

高橋「ちょっと話戻すけど、みんなアニメへの入り方はわりあい直結みたいなもんだけど、何故サンライズだったかっていうのも聞きたいね。アニメーション会社っていうのは他にもあったんだから。サンライズっていうのが他の会社と違っていたのか? たまたまだったのかっていうのも聞きたいんだけれど」
高松「私はたまたまです。どっかアニメーションの会社に入りたいと思ったときに一番最初に訪ねていったのが笹川ひろしさんのとこだった。当時、[ヤッターマン]とかやってて住所調べて手紙書いたら返事が来たんで訪ねて行って、アニメーションやりたいんですって言ったら『うちは人とってないけど、前タツノコにいた長谷川(徹)さんという人がサンライズでプロデューサーやってるからそこに紹介してやる』って言われて、それでサンライズに電話して長谷川さんに“アニメーションやりたいんです”って言ったら、“今うちはとってないから”って言われたんですけど、しばらくたったら、“欠員が出たからおいで”って言われて・・それでするっと入っちゃった。訪ねていった時に笹川さんがタツノコ紹介しますって言ったらタツノコに入っていた」
高橋「その時っていうと長谷川君はイデオンかなにか?」
高松「えーと、[ボトムズ]です。ボトムズがもう始まってて、私が入った時にはクメン編のクライマックスのあたりで富岡(秀行)さんがドロドロになって進行やってて(笑)。“これを塗れ”とか、“マシンかけろ”とか言われて(笑)」
高橋「僕なんか富岡君はドロドロになっていたっていうイメージじゃなくて、何か仕上げの[ジャスト]の女の子に可愛がられてて、“いいな、こいつ仕上げの女の子にもてて”って(笑)」
高松「私にマシンかけさせて“仕上げの回収に行ってくる”とか言ってどっか行っちゃうんです(笑)」
高橋「先生志望だったお杉は・・?」
杉島「やっぱ、小学校・中学校の頃ってアニメ大好きで、[マジンガーZ]とかは“なにがあっても帰って家で見る”みたいな感じだったんですけど・・それからしばらくアニメ全然見てなくて、大学入った時にたまたまガンダム見ちゃったんですよ。しばらく見ないうちに“アニメってこんなことになってたのか”って(笑)。ものすごいカルチャーショック受けて、“ええーっ”とか思って・・。結構[スターウオーズ]とか[エイリアン]とか好きだったんでアニメーションというのはそういうレベルまで来たな(笑)とか思ったんで、だったら仕事決まってないし、そういう世界に触れてみるもの面白いかもしれないと思ったんで、僕の場合は狙いですね」
赤根「僕もガンダム作ったサンライズってことでピンポイントですね。他にも当時の大手ってとこに電話かけて聞いてみたんですけど、ちょうど募集がなかった・・。サンライズって当時ガンダムってヒット作はありましたけど、まだ新進のベンチャーみたいな感じに見えていたんですよ、自分には。で、隙間産業じゃないですか。東映とか日本アニメーションとか大手がやらないロボットものっていう面倒くさいアニメーションをやっているっていう。だから、自分としてはもっともっと発展する・・そういうふうに何か希望っていうか光みたいなものが見えましたね」
高橋「26歳の加瀬ちゃんは?」
加瀬「(笑)うーん、なんとなく居座っちゃったと言うか、居心地がよかったって言うか‥‥。あたしけっこういろんなところに顔出していたんですけど、遊びに行ったり、アルバイトしたり、で、いつの間にかツルっと‥‥ライディーンの頃かな。狙ってと言うんじゃないですね。運命的にと言うか、へへへ、気がついたらサンライズに馴染んでた」
高橋「なんだか分かったような、分からないような、まあ、いいでしょう(笑)」


サンライズへの想いはそれぞれがそれぞれでありましたが、みんなの発言の中にちょくちょく『昔‥‥』と言うフレーズが出てくるのが気になって、どのくらいを“昔”としているのかを調べてみましたら、なんと本当にふた昔ほど、つまり20年前後前の話なんですね。ついでながらサンライズ最初のロボットもの[勇者ライディーン]が1975年4月放映開始、[機動戦士ガンダム]が1979年4月放映開始、な、なんとこの間4年しかなかったんですね! サンライズ草創については苦節何十年のイメージがあったのですが、うーん‥‥。

余所のでコンテ書いたら
『なんだよ、このサンライズ臭いコンテは』とか言われた(笑)

加瀬「スタジオごとに違ったじゃないですか。富野さんのスタジオの作品の傾向と私がずっといた長浜(忠夫)さんとね。巨大ロボットっていうふうな感じでやってたのと。私はとにかく長浜さんの方が多かったんです。長浜さんから佐々木勝利さんに代わって、それでもロボットものってなくならない。サンライズっていうとロボットものっていう感じになってるじゃないですか。でも、昨今。“ロボットものの傾向が随分変わってきてる”っていう」
赤根「加瀬さん、違うよ。サンライズはロボットものっていうブランドじゃなくて、サンライズっていうブランドができてる。俺達の頃には、まだ無かったと思うんですけど」
杉島「サンライズっていうだけで買ってくれるお客さんがいるっていうのは凄いよね」
赤根「それはどうなんだろうって(笑)思うけどね」
高松「ベンチャーだったのがブランド会社になって、取りあえずサンライズっていうマークがついてれば・・ヴィトンのバッグみたいに(笑)」
赤根「昔、演出に成り立ての頃、よく余所の会社の仕事でコンテとか書いたら『なんだよ、このサンライズ臭いコンテは』とか言われたんだよね(笑)。チキショー、チキショーって思いながらね・・」
杉島「その頃と今では状況が全然逆転してますね。10何年前だと他のところで仕事すると、サンライズ出身の演出家っていうと、たいてい、“ああロボットしかできない奴”みたいな、そんな言われ方しましたけど、最近じゃあサンライズ出身の演出家は肩で風切って歩いてますからね(笑)」
赤根「自分の場合、今、外へ出てそれがサンライズっていうブランドしてるっていうんじゃなくてサンライズで育ったっていうプライドがありましたね。そのプライドがやっぱり支えにはなりました。いくら外からサンライズ臭いって言われようが(笑)、何て言われようが、でも俺たちがやってきたことは間違いないんだって」

高橋「でも、きっとね、サンライズらしさってのはいろんな要素があって成り立つんだろうけど、監督に限って言えば、長浜さんと富野さん、神田さんと、佐々木さん、ま、僕、それぞれけっこう違うんだよね。これ全然違うんだよね、ほとんど違うんだから。相反するものが混在するのに、サンライズらしさが出てきちゃうっていうのは、きっと、その頃はサンライズにはベンチャーとか何とか胡散臭い部分があったんだよね。それがけっこうらしさになってる」
高松「多分、東映さんとかムービーさんでやってた人からみると、なんだか分からないのがでてきたっていうふうにみてたのかもしれないですね」
高橋「僕だって[サイボーグ009]やったときに東映のプロデューサーにシリーズ全てが終わって別れ際に『僕は良輔さん好きだけど二度と仕事では付き合いたくない』って言われた・・」
一同「ハハハ・・」
高橋「ようするに、演出としては受け入れ難いっていうね。虫プロからサンライズっていう、その匂い、その方法論は受け入れがたいって。やっぱオーソドックスじゃないんだね、彼らからみるとね。“1回の話はこういう材料で起承転結があってこのところでちゃんと盛り上げて”っていう当たり前のことをやってくれないっていうそこのところ、そのくせ我侭だとかね」
赤根「演出は我侭っていわれてますけどね(笑)」

外からみると、すごく監督が自由にやってるようにみえるらしいですよ

加瀬「東映的な部分と虫プロ系というのでいうと、富野さんは虫プロ系じゃないですか。でも、長浜さんていうのはムービーで・・巨大ロボットもののコンバトラーとか東映が関わってきてるじゃないですか」
高橋「作品は東映の下請けだからね」
加瀬「どういうふうに違いがあるんですか」
高橋「東映の下請けなんだけど、サンライズ丸受けだから東映の匂いというよりサンライズであり、長浜さんなんだよね」
赤根「監督とか演出の色がすごく出ちゃうのがサンライズの作品なのかなという気もしないでもないですけどね」
高松「わりと外からみると、すごく監督が自由にやってるようにみえるらしいですよ。だから、局とか代理店とかスポンサーとかの、そういうものの圧力に対してはすごい監督が自由にやってるようにみえるみたいな」
高橋「この中で東映の仕事を重点的にやってる人っているのかしら? ・・・・いないんだ。そうか。僕、東映の絵コンテマンとかそういう人に仕事してもらったんだけど、違うんだろうなって思うのは、プロデューサーに対する従順さっていうのが全然違うね。サンライズの演出とはね。東映の演出系の人は全部が全部同じってわけじゃないんだけど、かなり従順っていうか、プロデューサーから“仕事いただきます”っていう、そういう姿勢とかそういう雰囲気あるよね。サンライズの演出は違うものね」
高松「サンライズのプロデューサーは監督に、全部、全権、任せてるって感じじゃないですか。少なくとも現場に関しては」
加瀬「ずっと仕事やっててプロデューサーってなんなんだろうってすごく思っちゃうわけですよ。監督がいてプロデューサーもいて、演出になりたてとか、この業界に入りたての時に。例えば実写のプロデューサーってお金持ってくる、流れの方は監督に任せてって形でもって仕事の分担あるじゃないですか。実写の場合はプロデューサーのほうが上ですよね。サンライズって違うじゃないですか。友達か友達以下っていうか(笑)。それは会社の成り立ちのせいですかね」
高橋「“サンライズのプロデューサーの仕事”の範囲の問題だと思う。プロデューサーが自分でお金集めてきて、やった仕事の結果が自分にかかわってくると思ったらあんなに全部監督に任せられないですよ。だって不安でしょう。サンライズの場合プロデューサーの仕事の重要なところが前の段階で分担されちゃってるわけ。その重要な部分って、当初は創業者たちが担っていたんだよね。スポンサーサイドとか局とかは営業が上手くやって、企画は山浦さんがやって、本当の意味でのラインプロデューサーの根幹のところは岩崎さんががっちりと抑えてやっていた」

ここで、出遅れていた渡辺君が登場。おい、ちょっと太ったなあ、まだ中年太りは早いぞ。上井草の商店街を踊るように泳ぐようにして歩いていたあの飄々としたイイ感じが薄れるよ。

高橋「ナベシンが来るまでにナベシンに聞きたいことなんかも先にすすんじゃったんだよね」
渡辺信一郎「じゃあ一杯飲んで帰ります(笑)」
高橋「ナベシンの就職試験の時、僕、試験官だったね」
渡辺「そうです。植田(益朗)さんは反対したとか(笑)」
高橋「だいたいね、あんまり支持者はいなかった」
渡辺「そうですか、やっぱり(笑)。僕は映画がやりたかったんですけど、丁度、就職する年が[風の谷のナウシカ]とか[ビューティフルドリーマー]とかそういう年だったんで、何か日本だと“実写映画よりアニメの方がどう見ても面白いじゃん”って思って。で、アニメで何か好き勝手なことやれそうな会社っていうとサンライズが一番いいかなと。ガンダムとかも勿論好きで見てたんですけど、別にガンダムみたいなものが作りたいと思って入ってきたわけじゃないし、まあ、わりと制約少なそうなとこだったらよかったんですけど」
高橋「一致して制約が少なそうっていうイメージがあったんだね」
赤根「特に見えてますよ、サンライズは。ホントに監督が好き勝手にやってる会社にみえて・・」
高橋「安彦さんが言ってたのがね、“いいかげんな会社でうるさいことを押しつけない”と。そこが、“志がないところが一番よかった”っていうような言い方してたね。“子供たちに夢を”・・とか“健全なアニメを“とか言わないのがよかった。仕事やってくれれば何でもいいっていうそういう感じがよかったって」
赤根「ゼロテスターが監督に丸投げしてるっていうのは、それに通じるんじゃないですか(笑)」
高橋「それがねそうでもないの。そこが創業者は巧みなの。創業者のなかで作品的な方向性をリードしていたのは山浦さんなんだけど。サンライズはロボットっていうのを売らないと仕事がとれないから、山浦さんはロボットというのをどのぐらい出すかは必死で、あらゆる手をつかって入れさせるわけ。こういうものを作りたいっていうのだけがプロデューサーとは限らないから、こういうものを作らないと商売にならないっていうのもプロデューサーのあり方だから、山浦さんにはそれが明確にあった。それが会社がだんだん豊かになって緩みが出てきて、昨今は認識の浅いプロデューサーが商売の成り立ちも深く考えないで監督に丸投げしちゃうってことが起こるようになった」
渡辺「僕が来る前にプロデューサーの悪口をずっと?」
高橋「いや」
渡辺「そういうわけじゃない(笑)」

遅れてきたわりには鋭い問いかけをするナベシンであります。さて今回は“旬”の監督5人+ロートル1人の座談会でありますが、話も佳境に入ってきたところではありますが、webでの限界を超える分量になってきましたのでお後は来週と言うことにさせて頂きます。では、シーユー(最近アゲインっていれないよね)ネクストウイーク!

【予告】

次回は最終回の2個前!「ええ~っもう終わっちゃうの~っ???」そうです!そうなんです!!!!またお便りも減ってきてしまって、つれない読者に愛想を尽かしたんです。我々はっ!終わるんです(嘘です。それが理由ではないですけど終わります)。座談会の後編に乞うご期待!


※サンライズの創業30周年企画として2002年に連載された『アトムの遺伝子 ガンダムの夢』をリバイバル掲載しています。現在はお便りは募集しておりません。
 

【リョウスケ脚注】
入社試験の審査官

何によらず選ぶと言うことは面倒なことらしく、この手のことを頼まれるのは多い。遡れば虫プロ入社の2年目ぐらいから頼まれていた。2年目と言えば普通組織ではペエペエであります。頼むほうも引き受けるほうもどうかと思うが、ま、言えばそのくらい面接なんていい加減なものなのです。サンライズにおいても数回引き受けた記憶がありますが、私は自分の全能力を動員して“エイ、ヤッ!”の気合で選びました。ですから例え落ちたとしてもクヨクヨしないことです。

鈴木さん

サンライズ草創期の経理担当の女傑。女傑といっても見た目優しくおおらかな感じの、そう、頼れる優しいお姉さんと言う方でした。私なんぞは緊急の酒代などをよく借りたものです。いずれにしてもサンライズの経理事務を育て上げた功労者です。なんでも今はご主人の任地先の北海道にお住まいだと言うことです。

富岡秀行

ダグラム、ボトムズ時代の塩山紀生氏(キャラクターデザイン、総作監)が自宅を離れて単身赴任して住んでいた石神井のアパートのオーナーの息子さんが富岡君だったのである。そんなこんなでボトムズ時代に制作進行のアルバイトでサンライズに入り、今や制作担当役員兼制作部長である。人柄もあって外部スタッフの信頼が厚く、まあサンライズ制作の顔である。少々の難は僕を上回る“飲兵衛”ということか、ストレスの溜まる立場だとは思うが身体には充分気をつけて欲しいものです。

植田益朗

初期サンライズにおいて異例のスピードで出世街道を駆け上がり、そのままの勢いで退社してしまった元役員プロデューサーであります。オリジナル作品では映画版[ガンダム]や[銀河漂流バイファム]などをプロデュースし、原作付きアニメでは[シティーハンター]や[犬夜叉]などなどを数多く手がけ、アメリカでは実写とCG合成作品[Gセイバー]を仕上げるなど、八面六臂の活躍でした。ま、思うに勢いが止まらなかったのでしょう。前述しましたようにサンライズは退社してしまったのですが、今も社外スタッフとしてスタジオには席もあります。今なお後輩に影響を与え続けている異色のプロデューサーであります。

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