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2021.08.02

【第06回】リバイバル連載:サンライズ創業30周年企画「アトムの遺伝子 ガンダムの夢」

 

その6「上井草の黄門様」

 さて今週の登場はサンライズの生き字引と言われる[飯塚正夫]氏である。この人とも古い馴染みなのであるが、ちょっと久しぶりなのであります。実は氏は去年サンライズを定年退職しました。社則に則っての退職者としては第1号であります。去年の秋口に行われたお別れ会は社内外の人が仰天するほど参集し、そのため1回では済まず、2回に分けなければならなかったほどでした。飯塚さんは創業者メンバーではないのですが、創業者より創業者っぽく、サンライズを愛していました。サンライズのスタッフはもとより、出版社の編集者やフリーのライター、カメラマンなど等、氏の薫陶を受けた後輩は数知れません。サンライズにおいては、ま、言ってみれば天下御免の[黄門様]のようなお人であります。
 久方ぶりにあった[黄門様]はすっかり白くなった髪に艶のよい顔色でおっとりと語り始めました。

最初は制作と営業だけで
どうするんだろうって思ってた・・

飯塚「うーんとねえ~、虫プロの最後の頃私は企画営業資料というところで・・・・なんだかよくわからないんだけど(笑)。虫プロではフィルムの原版管理すら誰もやってなかったから、毎日徹夜状態でね・・・・」
高橋「フィルムの整理をしてた?」
飯塚「整理どころじゃなくてさ、プリント販売から現像所へ発注、カット処理といろんな事やってた(笑)あの当時はムチャクチャだった。原版は、虫プロの本社にもある、手塚先生の家にもある、ほかのスタジオにもあるし(笑)、東洋現像所(今のイマジカ)にもあるとか‥・・。だからもう、“新しい会社”に参加なんかできないよっていう事で断ったわけ」
高橋「それがサンライズ?」
飯塚「そう、最初は制作と営業だけでどうするんだろうって思ってた・・‥(笑)実際に作る人いないじゃないかよって(笑)」
作る人・・・・つまりは絵描き(アニメーター)物書き(シナリオライター)恥っかき(演出)など等である。
飯塚「最初は、制作もきっちゃん(岸本社長)1人しかいなかった・・‥。[ハゼドン]の時なんか社長の岸ちゃんが自分で進行やってたんだ。床にカット並べて‥・・。創映社は、東北新社のアニメーション部みたいなものだったよね。一般の企業でいえば東北新社が営業部、創映社が企画制作部で工場部門がサンライズスタジオなんだね」
高橋「サンライズに移ってからは?」
飯塚「僕は、虫プロから創映社で移ってからは、企画書の体裁を整えるだけ。私はあくまでも山浦さんのお手伝い。アルバイト‥。でも手取りは山浦さんより多かった。山浦さんと歩いていると、僕の胸をね、触ってくる。『なに?』って言うと『タバコ』って(笑)お金も『打ち合わせの茶店代ない、仮払清算したら返すから』と、しょちゅうで、仕舞には山浦さんのポケットから領収書かき集め伝票書いて東北新社に出してもらって返してもらってた」
高橋「タバコをねだられる(笑)」
飯塚「上井草の商店街の人に山浦さんとは兄弟かと思われていてさ、『お宅の兄さんはいつも忙しそうにしてるね』って言われていた。最初は、喫茶店のユタカの2階で[ハゼドン][ゼロテスター]とやったでしょ、狭いところで・・‥。ゼロテスターの放送が終わってから結局1年間ぐらい休んじゃったんだよね‥・・。なかなか次が決まらなかった。
で、ある日、山浦さんが新社から帰ってきて、いきなり『巨大ロボットやれって言われた。飯塚ちゃんわかるか?』『わかんないよ』って、それからお勉強だよ2人してさ。『どうしてこんな巨大な悪人面の不細工な奴らが受けるのか』って、しょうがないから子供に聞いて歩いた。毎日曜日くらいに池袋行って西武とか三越とか、あとは新宿の小田急や京王に行ったりした。役に立ったのは池袋の西武と上野の松坂屋。新宿はね、子供がお上品なんだなリサーチするには‥(笑)」
毎日曜日にはデパートに行って子供と遊んでやってさ。今だったら怪しいおじさんだよ、危ないおじさんになっちゃうよね(笑)。で、それで少しづつ聞き出して、分析すると子供は『自分は小さいんだ』、そしてあの時代は『上には兄ちゃんやねぇちゃんがいる』と。『父ちゃん母ちゃんもいる』と。『みんな自分よりでかくて力があって、それをひっくり返せる』っていう子供の変身願望なんだと・・‥。主人公がロボットに乗ることによってね、『強くなるんだ』と。それで『悪い敵やっつけるんだ』とね、まあ、そういうことが分かってきた」。
高橋「ちょっと話を戻しますけど、さっき『いきなり巨大ロボットをやれって言われて』と言いましたよね。・・・・巨大ロボットを最初にやろうって言ったのは・・・・?」
飯塚「植村さん、東北新社の大社長・植村伴次郎さん」
高橋「え!? あ、やっぱり植村さんなの!? いつのまにかサンライズの専売特許のごとく定着してしまった感があるけど、いいだしっぺは植村伴次郎さん」
飯塚「それはね、自分のオリジナルの作品があれば、あの当時、ほとんど100%マーチャンが入ってきてたわけでしょ?[ゼロテスター]だってそうだったでしょ、植村さん」
高橋「だそうですね」
飯塚「山浦さんが植村さんにサンダーバードのおもちゃが売れたんでアニメ版のサンダーバードを作ろうと言われたんだって。・・・・山浦さんが富士見台駅から歩いてくる途中の線路際に電気屋さんがあってさ、タイトルが決まらないって時に[テスター]って字を見つけたの。で、1テスターっていうのもなんだから[ゼロテスター]ってつけたの(笑)
 植村さんは外国からTV番組を買い付けて、それを日本国内に販売する商売をしていた。音の吹き替えまでするスタジオも作ってさ。すごいなって思ったわけ目先の利く実業家としてね。ゼロテスターも儲かったと」

 飯塚氏は何気なく言ったのであろうが[ゼロテスター]だけでなく[ライディーン]も言いだしっぺは植村さんだったというのは驚きであった。つまりは“ロボット物に目をつけた”のは植村伴次郎社長だったのである。

飯塚「で、ロボットに話を戻して[マジンガーZ]など他社(よそ)の[ロボットは一体何者なんだ。何がモチーフなんだ]と考え(分析)してみると[西洋の甲冑]だ。そこで山浦さんに『山浦さん、向こうが[西洋の騎士]なら、3番手4番手になるから何か違う目新しい形がいるでしょ。我々は東映のチャンバラ、時代劇映画を見て育ってきたじゃない。[日本の侍大将の鎧兜]でいこうよ。子供は不細工よりカッコイイのが好きっていってるから[挌好良く]と‥・・。で、どれがカッコイイか? 後はどうなんだ? 何だかんだと(笑)。色は‥、海底に沈んだ伝説のムー帝国だから、緑色、いやエメラルド色。それじゃあ暗くて正義の色じゃない。で、また子供に聞くと『赤白青が好き』。そこで山浦さんに『トリコロールカラーがいい』と言うと『トリコロールって何だ?』って言うから『フランスの3色旗でしょ‥』で、飾りの処は黄金色にしようって[黄色]。で、[ライディーン]の色が決まった。それが、その後の独立してからの株式会社サンライズのロボットものの基本カラーになったというわけ」

 うーん、ガンダムですら確かにこれがサンライズの基本色だったよなぁ・・・・。

経営者たちに
誰も机が無かった

飯塚「それから[勇者ライディーン]が決まった年の11月頃になって、元フジテレビのプロデューサーだったMK(エムケー)の金子満さんが企画を持ってきたの。あの頃はずっとフジテレビと関西テレビ。創映社はフジテレビネットだった。で、[勇者ライディーン]は渋江さんがプロデューサーになって。岩崎さんが、“飯塚ちゃん一緒にしばらく手伝ってよ”っていう事で・・‥」
高橋「金子さんの企画って何が来たんですか?」
飯塚「それが[ラ・セーヌの星]。それで岩ちゃんが人買い(スタッフ集め)を始めたんだ(笑)。元虫プロの営業にいた中川ちゃん(中川宏徳・現サンライズ総務部長)なんかも進行やるかっていう事で声掛け、それから神田豊さんとか。あとまるっきりの新人を2人とかさ。でもデスクがいないってんで小森さんを‥。小森さんは虫プロの最後の頃なんかも下請けでよく来てくれていたから、岩ちゃんもよく知っていて頼んだけどこんどはスタジオにする場所が無いという事で、まだ建って間もない光洋ビルの5階にした。当時は社長にも机が無いの(笑)。そもそも誰も机がなかったんだから経営者たちに・・‥」
高橋「ユタカの上から光洋ビルの5階へ移った」
飯塚「そう5階。狭いので家賃が一番安いから‥・・(笑)。狭すぎるって、じゃあ次に安い階は何処だって4階を借りたわけ(笑)ここで[ラ・セーヌの星]。[勇者ライディーン]はユタカの2階で」
高橋「この2つだけだったんですね」
飯塚「そうそう。ところが直ぐに今度は安彦さんの[わんぱく大昔クムクム]が決まっちゃった。それで今の[ブックス文悠]、当時は[八百商ストアー]、八百屋さんの狭い2階を借りて。プロデューサーは柴さん(柴山達夫氏)。
いやぁ~、場所はない、人はいない、おまけに同じ曜日の同じ時間に放送であの年はシッチャカメッチャカだった」
高橋「今、サンライズに残っている作品的な資料っていうのは、[無敵超人ザンボット3]以降のものなんですか]
飯塚「基本的にはそうだけど、[神秘の王者エメランダー]もある。ライディーンの前身の(笑)・‥」
高橋「あの、でも紙の資料ってむっちゃくっちゃ多いじゃないですか。で、どんどんどん本数が増えていくっていうと場所も取るでしょう。資料の管理っていうのは変わったんですか?」
飯塚「基本的には変わってない。コンピュータでデジタル化しても、データベース化はまだまだ先でやっぱり紙資料は紙資料で残してはある」
高橋「ヤマト、ガンダムなんかの人気の高まりで出版社が殺到して、素材として資料が必要というのがあるでしょ? 当然飯塚さんの所に?」
飯塚「最初の頃は、米ちゃん(米山安彦氏)や山浦さんがやってたけどね」
高橋「ゼロテスターの頃から比べると、格段に今は量的に多いでしょ?」
飯塚「あの頃はまだ、雑誌掲載用のイラストとかは、[スタジオぬえ]さんに頼んで済んでたからね・・‥。それをセルで納品する形が始まった。
[ライディーン]は、マンガになってるわけじゃないし、小説の原作があるわけじゃないんだから『ね、宣伝しなきゃ駄目でしょ』って言って。あの頃はアニメ誌がなかったから、講談社や徳間書店等の子供向け雑誌[TVマガジン][てれびくん][テレビランド]、あと学年誌とか秋田書店の[冒険王]とか‥。そういうところにお願いに行って、僕が毎月素材を提供してた。そうすると『この中では、敵はこいつが一番強そうです』とか『味方はこいつと闘って、あと3台は出てくる』というようなラフ案を描いてさ、『これでどうでしょう?』『それでお願いします』って‥。キャラクター作った人か作画監督に描いてもらったりしてたよね。
その頃はもう、米山さんは辞めていたから、しょうがなくてさ。岩ちゃんの帰りが遅くなった時なんかは一緒に夜中に素材を講談社に放り込んで‥、2人で高島平に帰ったりしてたのよ(笑)」

 お二人はその頃できた大団地[高島平]にほぼ同時期に入居していて、なんでも岩崎さんが叔父さんから買った3万円の軽自動車で共に虫プロの残務処理で富士見台、そしてサンライズのある上井草とだいたい一緒に移動していたということである。その後のお二人の交情の深さをみるに、それを育んだのがお隣さんのよしみと言うのが何故か微笑ましい。
 やがて時代は急速に動いていった。そういうなかで創業メンバーは独立への道を模索し始める。

飯塚「[鉄腕アトム]の頃は、(商品化は)明治製菓のお菓子、それから文房具しかなかった。あとお菓子に付いてるシールとか、フィルムだったわけ、後に運動靴とか・・‥、あの頃メインになるスポンサーが変わったなと思った」
高橋「やっぱり巨大ロボットがおもちゃになったこと。スポンサーがお菓子会社からおもちゃ屋さんに変わったのが一番サンライズを語る上でのキーワード・・‥ですか」
飯塚「今の玩具メーカーが、おもちゃ屋さんからメーカーになった時代だった。なおかつ、まだ[マジンガーZ]までの頃は、ブリキのおもちゃが主流だったわけですよ、ゼンマイでもってコトコト歩く‥・・。だから歩くためにはコッペパン(長円形)のあんよ(足)が必要だったわけ。ライディーンじゃそれができないって大問題。で、当時流行のジーパンのベルボトムで爪先伸ばしブーツで踵をつけて(笑)‥。それで超合金が出たでしょ? それが子供にオオウケだったわけ。なんでかって言うと、まず重たいと。今までのブリキだと軽くてさ安っぽいと。で、本物みたいだと。子供に聞いたらそんなこと言うわけ」
高橋「この辺りのことが、創映社から離れるエネルギーになった?」
飯塚「それまでは代理店にも放送局にも、何回も足を運んだけどなかなか決まらないわけよ。放送局としてもそうだけど、代理店だって億単位のさ、それだけの売れる商品が作れるところがスポンサーになるって言えばさ、見込みがたてばさ番組は決まるけども・・‥。何しろ弱小プロで億単位の取引は難しくて‥‥みな、大変な苦労でした‥‥」
高橋「ロボットが主流になってまだまだ続きそうだなというヨミが立った」

 独立の経緯については正確を期するため経営に携わった創業者に再度インタビューすることにしよう。

町場のプロダクションのような
感覚でいたんじゃ駄目創業七人の中では
一番細やか。緻密で細心。

高橋「これは飯塚さんなんかに聞かないとわからないもので・・・・。創業者の特徴というか人物評みたいなものをざーっと聞かせてもらえないでしょうか。亡くなった初代社長の岸本さんあたりからひとつ・・・・」
飯塚「うーん、やっぱり当時では一番は制作現場が中心で周りの人が信頼がおける、人間性もね。考え方はアバウトでさ、ちゃらんぽらんなところあったけどさ、[機動戦士ガンダム]の時なんか5作品あったでしょ? 忙しいさなかでも自分も1作品のプロデューサーやってさ、さらに東映さんの所とか円谷さんの所とか社長として行かなくちゃなんないんだけど、遅くなって会社に帰ってきても、自分が退社する前には現場を覗いて『どうなってる元気か? ちゃんとやってるかって?』いうのがさ、心遣いと言うか、やっぱり人間性というところにおいてはさ、そりゃハゼドンの時から自ら進んで進行もやる、ま、当時はやらざるを得なかったんだけど、でもやっぱり、先頭きってやってくれるっていうことで、そんな信頼感っていうようなことは一番厚かった。だから、きっちゃんが社長になって正解だった」
高橋「で、2代目の社長が伊藤さんでしたね」
飯塚「伊藤ちゃん、あの人は緻密な人でね、見てくれと全然違うの。頭は五分刈りで7人の中では一番こわもてでさ、もっとも、きっちゃんも夏になると坊主刈りになって山浦さんも夏は坊主、渋やん(渋江靖夫氏)はいつもそうで・・・・皆サングラスで」
高橋「見ようによっては、そのぉ・・・・」
飯塚「そうそう、それで揃って出かけるって時には背広だって黒っぽいのしか無いわけだ。うわぁ~! ヤクザが5人やってきたとかってさ(笑)」
高橋「それで緻密なんですか、伊藤さんは?」
飯塚「うん、外見だと豪胆風に見えるけど、創業七人のサムライの中では一番細やか。緻密で細心」
高橋「細やかっていうのは、仕事の面だとどういうところに出るわけですか?」
飯塚「ガンダムからですよ具体的にはね。営業的にサンライズは今までは受身だったわけですよ。企画の内容だとか商品の内容だとかは山浦さんがなんとかやってきたんだけど。金をいかに稼いでくるかっていうことになると、色々計算して今度は営業的な交渉を始めた。特にガンダムの後でね、ガンダムが成功したと。映画にもなって、映画サイドを初め他の世界がぐんと拡がったんですよ」
高橋「主にそういうことですか。ガンダムならガンダムっていう素材をね、映画にするとか発展させていくっていうことは、ある種企画力と同時に営業力じゃないですか。そういう力?」
飯塚「それをきちんと具体的に形にしていくという所の能力は伊藤ちゃんが一番だった」
高橋「もうひとつ分かりにくいんですけど、具体的にということについて言えば、『これを映画にしよう』っという発想があればそれは具体的なことなのですが、伊藤さんからね、これを映画にしようとか、これをこうしようって、あんまり印象にない。契約の条件、契約書の穴を見つけるとかはありそうだけれど・・・・」
飯塚「うん、そう、どっちかといったら後者、それには今までのやり方、町場のプロダクションのような感覚でいたんじゃ駄目だと。会社として、代理店など、そういう所へ一生懸命になって自ら働きかけて、サンライズはこういう作品つくった、こういう評価をしてくれってね、会社としてビジネスとしての付き合いを固めて会社の形を作り固めていった・・・・」
高橋「丼勘定のプロダクションから・・・・」
飯塚「きちんとした形に。組織体を固めてそれを実際に運用できるようにしたのは伊藤ちゃんの仕事。これは伊藤ちゃんがいなかったらできなかったこと」
高橋「そういうことは意外と見えにくいものなんですよね」
飯塚「中の人でも気づいていないところがいっぱいあると思うよ。創業者当人たちでも」
高橋「余分なことですが、あの人、舞台が大きくなればなるほど挨拶がうまいですよね。時によっては長すぎるときもあるけど、テーマ決めてこういう場所でこういう事しゃべるっていったときの挨拶はなかなかのものでしたね」
飯塚「そうそう」
高橋「あれ、場慣れだけでなく、頭の良さの表れでもありますよね」
飯塚「そうそう」
高橋「確かに、緻密でもありますね」
飯塚「自分たちの会社が、土台が出来た結果が出た。じゃあそれをきちんと固めなきゃいけない。それは自分の役目だろうと思ったんだろうね」
高橋「ある程度創業のところからそれぞれの役目はあったんでしょうけど、伊藤さんの大きい役目というのはある時に、一段階登ったところで一番発揮されたのですね」
飯塚「町場のプロダクションから会社という形に育て上げたと」
高橋「山浦さんはどうなんですか?」
飯塚「モノ(作品と商品になる)を作らなきゃいけない会社で何をしなきゃいけないかっていう事で。なにしろ本は好きだ映画は好きだ・・・・」
高橋「やっぱり、企画っていう事ですか」
飯塚「アイデア。それから、人付き合いの良さでもっていろんな人と付き合う。とにかく格好をつけないからね、むしろだらしないくらい。だから付き合う相手に『ああ、この人はしょうがないなと、でもなんかやってあげないとしかたがないな』と思わせる、あの人望ですね。きっちゃんとは別の人望があった」
高橋「なんかココロをくすぐるものがあったと」
飯塚「あったね、ええ大いにあった」
高橋「山浦さんは元々はカメラマンですよね。技術者というよりはサンライズのようなプロダクションの企画の方が合っていた? どうなんですか? 結局向いてたんですか企画ということに?」
飯塚「向いてた。何せアイデアいっぱい。風呂やトイレで考えて、よく足が痺れて這い出てきたり(笑)。あと誰もやらないからしょうがないな、ってのもあって。人間っていうのは自分がこういう事できるなっていってもさ、そういう戦いの場を設けられないとなかなかやれないもんじゃないですか。そういう意味では、見事にうまくはまったと‥‥。そして最後は岩崎さん。なんといっても実務派」
高橋「実務派?」
飯塚「なんであの人が昔役者志望だったのかわかんないけど!」
高橋「たまに飲む場だとその片鱗は発揮しますけど」
飯塚「そうそうそう。明治大正昭和のカラオケをやるし(笑)」

 岩崎氏は飲まない、たぶん体質的に飲めないのだろう。というのはストレスが溜まると自分の隠れ家的な酒場に行ってアルコール抜きでガス抜きをしてくる。どんなことをしていたかは知らぬこととする。

高橋「制作現場だけじゃなくて、会社の総務っていうか庶務の原型なんかも岩崎さんが作ったんですよね。よく働いていたなあ・・・・。あの実務派がいないと、やっぱり喋る人ばかりじゃあね。気合かけるだけじゃ駄目ですものね」
飯塚「工場長さんですよ、スケジュールとお金を管理できる立派な工場長さん」
高橋「似たような所ではその、渋江さんがいたじゃないですか。渋江さんはどうだったんですか?」
飯塚「渋やんはね、どちらかというとアマチュアリズムの商品や商売より純粋に作品の質と映像表現や技術の質を求めるマニアックなものを、自分でも作りたいけど自分だけじゃできないってんで誰かに手伝ってもらって出来るというタイプだったね。だから作品に恵まれたり、状況に恵まれたりするといいプロデュースは出来たけど・・・・コマーシャルベースの番組では制約があり苦労してましたよ」

 私の知る渋江さんは情熱家であった。激情家でもあった。怒らすと怖かった。一身上の都合で引退までいたらず退社してしまったが、今どうしているだろう。いずれにしても近いうちにインタビューをさせていただかねば・・・・。

サンライズでは、
本当の意味でのプロデューサーは
山浦さん

高橋「サンライズではプロデューサーというクレジットで、同じように渋江さんと岩崎さんがね・・・・」
飯塚「サンライズでは、本当の意味でのプロデューサーは山浦さん。サンライズでプロデューサーってクレジットされるのは制作管理者、制作担当責任者、東映さんでいえば・・・・」
高橋「ラインプロデューサーですか?」
飯塚「そうそう。企画・設定段階では山浦さんのお知恵を拝借しなきゃいけないし、それからシリーズの制作段階に入ってしまえば設定制作、文芸制作さんに任せるという事で、どちらかといったら制作工程の管理者だよね」
高橋「沼本さんっていうのが特殊な位置にいて、最初創業グループなんですよね。で割合早く辞めて、その後スポンサーサイドとしてかかわったりしたのが沼本さんなんですよね。沼本さんっていうのは・・・・」
飯塚「沼本さんっていうのはね、元はアニメーターさんだった。第2原画までやってた。第2原画になって、そのあと原画になるのかなって思ったら、管理者になっちゃったわけ虫プロでね。そういう方が向いてたんでしょうね。だからサンライズになっても、もちろん作画スタッフの管理はする、技術のノウハウは教えるっていうことはしていた。そのうちに[タカラ]さんにいかれた。で、沼本さんがタカラさんにいったっていうところがサンライズが後に独立できた一つの要因なわけで。でもそれに応えられる企画が出来たっていうのは・・・・これは山浦さんがいなかったら出来なかった」
高橋「沼本さんというのは、まぁその、虫プロ時代の若い時から毀誉褒貶が激しくて、で嫌いな人は嫌いだった。僕は相性がよくってずーっと世話になってよく飲ませてもらった挙句に下宿なんかに泊めてもらったりした。情熱家でもあるし、いい意味で意地っ張りでしたね。でその沼本さんがサンライズにずーっといるっていうことにはならなかったけど、外にいながらサンライズの歩みの中では欠かせない人であると」
飯塚「そうですよ。だって、最初の頃のサンライズは作画のノウハウなんか誰も持っていなかったんだから・・・・営業が3人。それから制作だったのが4人でしょ」
高橋「虫プロの作画に安彦ちゃんを入れた直接の責任者は沼本さん。『あいつは天才だ』って沼本さんから聞いたことがある」
飯塚「そうそう。丁度ほら、深井国さんの、あの[哀しみのベラドンナ]。安彦ちゃんもやらせられたんだ。1人で黙々とさ、もういっぱい描いて、あの人いつ休んでるんだっていうくらいさ。ふと見るといつも机に向かって描いているって」

 当時アニメーターの採用試験に沼本さんは[知能指数]を取り入れた。持論は『アニメーターは馬鹿じゃダメなんだ』というものであった。安彦良和氏の知能指数は“天才”の領域だったそうである。

高橋「僕が意外と知らないのが、米山さんなんです。飯塚さんが当初の頃アルバイトを頼まれたって言う、米山さんってどういう人なんですか? 創映社では何を? 営業をやっていた?」
飯塚「営業と渉外でしたね。僕は彼に誘われて、でも参加できず。それで米さんから[ゼロテスター]の関西テレビのプレゼント用セル作りを‥‥虫プロの仕事の合間や終わってから、岩ちゃんの車で拉致されて(笑)。」
高橋「僕は、辞めてからの付き合いのほうが多くて。アニメには珍しく品のいい気のいい人だなぁと。酒も悪い酒じゃないし」
飯塚「だって、お育ちがよろしゅうございますから」
高橋「あ、育ちがいい」
飯塚「はい」
高橋「でも、割合早く辞めてしまって・・・・」
飯塚「あれは親父さんの方で仕事継げっていう事で」
高橋「創業グループが引退して8年かな、今の体制になって、なんとなく違うムードが出てきましたよね。飯塚さんは、今後はサンライズはどういう風になっていくと思いますか?」
飯塚「うーん・・・・」

 飯塚さんの答えは打てば響くようなものではなかった。そして再びポツリポツリと話し出した言葉は一見繰り返しのごとくに聞こえた。

飯塚「虫プロの時って、我々は育ててもらった教えてもらってっていう段階だよね。組織の中で安穏としていられた。金銭的生活面は別だけどさ。ハチャメチャでさ、徹夜続きだったりしたけどさ。実体験、経験をさせてもらって、そこからだよね。
独立して、サンライズスタジオ、創映社になってから、みんなやっぱり本当に正念場だったと。ただその時点では誰しもがどうしたらいいんだろうと。とにかくなんとかしなきゃなんない、じゃあ下請けでも転がそうかっていうところから始まったわけです。
大きなきっかけになったっていうのは子供向けの商品を扱うところがスポンサーだったけど、やがて玩具メーカーという新しい子供向けのスポンサーがついたっていうこと。元を正せば[サンダーバード]かもしれないけども、やはり日本のオリジナル、国産ということでは、[マジンガーZ]の巨大ロボットから始まったと思います。
であれが巨大ロボットのスタートで、しかもおもちゃと云うものがブリキのおもちゃから超合金のダイキャストで重くなって子供に受けた。なおかつ技術がすすんでABS樹脂だとか・・・・プレイバリューで変形だとか合体だとかっていうものが出てきた。それに合わせて我々のほうもその子供が喜ぶようなもの、性能、機能を備えたロボットを開発していった。その商品が活躍する世界を創って・・・・また前の作品とは違う世界を造る。その時代に合ったドラマを作る。という考えでね‥‥。
同じやり方していても駄目で、その時代その時代にあったものが必要でね・・・・。
サンライズもやはりね、オリジナルが山浦さんと僕だけでは、だんだんだんだんお客さんである子供とさ、年齢が開いてくるんだから、これはもうね。時代感覚合わなくなってくるんだから・・・・だから、視聴者・子供とできる限り近い年令の若い人たちを入れてきた。これからは彼らが21世紀の時代のトレンドや作品を創っていかないとね‥‥」

 飯塚さんの口からはサンライズの明日、後輩への提言、時代の方向などへの明確な言葉は聞けなかった。去るものが語るべきことではないとの思いなのであろうか、それとも自分の道は自分で決めろとの気持ちなのであろうか、だがとつとつ語る言葉の端々にはサンライズへの並々ならぬ愛情が感じられ、月に数回後輩の指導にみえると言う氏の健康を祈りつつ、私は心の中でひそかに「上井草の黄門様よ永遠なれ」と呟いていた。
 後日黄門様に原稿のチェックをお願いした折次のような文を頂いた。いかにも飯塚さんらしい丁寧さにあふれた追加メッセージだったので、そのお人柄に触れてもらうためにもそのまま掲載させていただきました。

追記

 インタビューは聞き手が良ちゃん(高橋良輔氏)のせいもあり、ついつい映画テレビ界のチャン付けで話してしまいました。しかし僕にとって初代社長・岸本吉氏は親分肌の[兄貴]。伊藤昌典氏は創映社時代は企画営業で車で連れられ諸処教えられた[兄上]。岩崎正美氏は毎日電話をもらい車で仕事場への送り迎え、東映初め各プロダクション、スタッフの所、週末にはオールナイト映画にと面倒みてもらい正美で正夫の[兄ちゃん]。山浦栄二氏は年長の上司で兄者人ですが、何しろお世話が大変で腕白ガキ大将の[あんちゃん]です。米山、渋江氏他の皆が一生懸命頑張っているのを少しでも楽にと自分の出来ることで皆の手伝いを・・・・の気分でおりました。皆様も差別なく親しく接してくれ幸せでした。サンライズ以後、特に[機動戦士ガンダム]後は資料番宣広報でクライアント・出版社の対応に忙殺され、加えて企画スタッフの相談養成などで疎遠になりましたが、何時も忘れぬ御厚情に感謝しております。文中での失礼はご容赦の程お願い申し上げます。敬白。飯塚正夫。

 次週は…

【予告】

次回、連載その7。ラッキーセブンは謎の人がゲストです。ただし酒飲みです。乞う!ご期待!(ご期待に沿えなかったらごめんなさい!先に謝っておきます!)

【リョウスケ脚注】
アニメーター

アニメという表現手段の根幹、どうにもこうにも無くてはならないものだから、まあアニメ界では地位が高く私が虫プロに入社したときなどアニメーターでなければ人にあらずの雰囲気があった。アニメを作るのにいいアニメーターは不可欠なのだが、昨今の優秀な絵描きが出ない、育たない、教育しなければ、の意見を私はとらない。乱暴に言えば“絵描きは湧いてくる”と思っている。それも優秀であれば優秀であるほど計算外に湧いてくる。それは絵描きというのは絵が“好き”でなおかつ“才能”が無ければ成立しないのである。育てようと思ってもダメ、でも勝手に好きになって勝手に上手くなるのも絵描きなのである。私は湧いて出てくるのを待つだけでいい、と思っている。

シナリオライター

アニメ界で一番不足しているのがこの部門! 数はいるんですよ、間口が広いからジャブジャブ入ってくる。アニメのなかで比較的恵まれているのもここ、協会などがあって身分がある程度守られている。これは先人のご苦労に負うところが大なのだが、制作進行が徹夜徹夜で稼ぐ一ヶ月のギャラを2、3日ワープロを叩くだけで稼ぎ出せる上、二次使用での権利も確保しつつあるので、低いレベルでハングリーさを失いやすい。まあ危険な商売である。アニメ界はこの部門のことを真剣に考えないといけないところにきていると思うけど。演出の私としては才能のあるシナリオライターがのどから手が出るほどに欲しいいいいっ一!

進行

軍隊で言えば一兵卒、今はプロダクションのなかに一貫した制作ラインがなく、大方のセクションが外注になっている。だから動画、仕上げ、撮影、演出などの間をカット袋を積んで軽自動車で飛び回る。というのが大体の仕事、アニメの血液かな。一兵卒ではあるが将棋に例えれば『歩のない将棋は負け将棋』とでも言おうか、優秀な制作進行はグズなプロデューサーに勝る。

ユタカ

もう首都圏ではあらかた滅んでしまった昔タイプの喫茶店だった。スタジオの直ぐ下だったのとスタジオに会議室だの何だのとのスペースもゆとりも無かったので、打ち合わせや会議などみんなここでやった。私もここでコンテを切ったり直したり、ものを考えたり、食事をしたりと、まあホントお世話になったものである。その後レコード屋になったりビデオ屋になったりゲームコーナーになったりしたが、今は花屋かしら……そのうしろのこれまたお世話になった銭湯の[大師湯]も営業をやめ敷地は更地になったと聞いた・・・・寂しいけれど今度ちょっと覗いてみよう。

小森さん

フルネーム[小森徹]さん。私の印象では[ザ、制作]といった感じで、風貌は古武士の風格を持っている。私の印象では一貫して制作の立場、地位の向上に尽くしている感がある。スタジオ[ライフワーク]の主宰者で、酒好き野球好きの“ミスター中年”である。ああそうそう、本当に漫画[野球狂の歌]の岩田鉄五郎にそっくりなのよこれが、いまでも自分のチームで投手を努めマウンド上で「オヨヨヨヨ~~」と投げている。いやホント鉄人だね。

柴さん

フルネームを[柴山達夫]さん。言っちゃなんだが、私の知ってる人のなかで昔風に言って“飲む・打つ・買う”の三拍子と言ったらこの人。私も色々教わりました。[どろろ][ワンサくん][宇宙戦艦ヤマト][わんぱく大昔クムクム]などのプロデューサーを歴任したが、クムクム時代放映最中に交通違反で刑務所(交通刑務所は満杯で一般刑務所)に収監され、サンライズがそのことを各方面に秘匿するのに苦慮したのを思い出す。子分を自認していた私は八王子刑務所を出所のとき出迎えに行きました。コンクリートの塀鉄の扉、風呂敷袋一つの柴さんが担当看守に深々と頭を下げて「お世話になりました」と言うシーンを期待して行ったのだが、何のことはない大病院みたいな入り口のガラスのドアーの向こうから「おう」といって健康そうに太った(実際酒タバコダメの健康的規則的な生活で10キロほど体重が増えた)柴さんが明るく現れたときにはがっくりした。

渋やん

フルネーム[渋江靖夫]さん。背はそんなに高くはないのだけれどトレンチコートがホントよく似合うハードボイルドな硬派の“男”でありました。だらしないアニメーターなどには大いに睨みが利き、その名を出すだけで進行などは作画などの回収がし易くなったと聞いております。飯塚さんの言葉に出てきた『マニアックなもの』と言う意味ではかの[機動戦士ガンダム]の初代プロデューサーと言うことでもある部分証明されています。サンライズを退いた後はすっぱりアニメ界から足を洗ってしまったが、最近はどうしているのだろう。

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