サンライズワールド

特集

SPECIAL

  • インタビュー
2021.09.01

【第07回】リバイバル連載:サンライズ創業30周年企画「アトムの遺伝子 ガンダムの夢」

その7「お前がゲストだ!」


「お前なあ・・・・どうもインタビューアーってことが今ひとつ分かってねえなあ」

矢立肇に上井草駅前の喫茶店[セピア]に呼び出されて、お説教がましく提案されたのが一週間前だった。

「浅井君に言って[おいしんぼ]の奥を予約しとけ。俺が手本を見せてやる。ゲストも適当なのを見繕っておくから」

で、今日の夜である。いつもの取材メンバーの、樋上カメラマン、プロデューサーの浅井女史、エディター兼演出の廣瀬君、そして私がおいしんぼの奥座敷に揃っていると、約束の19時を少し回ったところで、

「ご苦労さんご苦労さん」

と矢立肇が姿を現した。座るなり、

「中生!」

とオーダーしてタバコに火をつけた。
程なく矢立の中生はむろん、全員の飲み物が出揃ったところで、

「んじゃ、とりあえず」

と矢立はジョッキを掲げた。
ジョッキを置いた矢立はいきなり言い放った。

「高橋監督、今日はお忙しいところを時間をとって頂きまことにありがとう存じます。早速ですが、インタビューを始めさせていただきます」

「えっ!?」

不意を衝かれた私がキョトンとした目を向けると、

「えっ、じゃねえの、今日のゲストはお前さんなの」

シレっと矢立は言い放った。

「ゲストって・・・・良輔さんなんですか!?」

一同の驚きをよそに、

「これ以上適当なのってのは居ねえだろう!」

矢立が言った。・・・・全員が二の句が告げなかった。

「俺がさ、こいつにインタビューアーの見本を実地に見せてやろうってんだ文句ねえだろうが。それにこいつも虫プロ出身だし、サンライズの創業時から付き合いがあるんだ。じゃあ樋上さん適当に話していますのでリラックスした辺りをパチリパチリとよろしくお願いします」

こんな調子でインタビューは始まった。
 

高橋良輔物語
はじまりはじまり‥

矢立「高橋さんもサンライズ創業者と同じ虫プロ出身とお聞きしましたが、学校出て直ぐに・・・・」
高橋「その前にサラリーマンやってたの知ってるじゃねえか」
矢立「あのなあ、これはインタビューなの、俺が知ってるかどうかなんか関係ねえの。いいから聞かれたことに真面目に答えろよ」
高橋「・・・・」
矢立「サラリーマンをやってたんですか!?・・・・どんな業界だったのですか?」

 

矢立はことさらマジな顔で質問を再開した。一同の顔を見回すと、それ『聞きたいです』てな顔をしているので、ま、答えることにしたのだが・・・・。

高橋「商業学校出て、すぐ商事系の自動車会社に3年ばかり居たんだよ」
矢立「じゃなくて‥、もう少し丁寧なほうがいいな、なんだかんだいってもサンライズの公式サイトなんだから」

クソぉ、私の受答えにまで注文をつけやがる。

高橋「・・・・伊藤忠自動車と言うところに3年ほど居ましてね、一身上の都合で退社し、虫プロの試験を受けました」
矢立「一身上の都合と言いますと・・・・差し支えなかったらその辺のところをお聞かせくださいませんか? マジに答えろよ、これはそのまま[その7]になるんだからな」
高橋「分かってるって」

私はとにもかくにも、一回分をこなせることが分かって、真面目に答える決心を固めた。
 

高橋「うーん、サラリ-マンの日常に飽きちゃった、と言うことだろうと思います。いい所だったんですよ伊藤忠自動車は。給料もまあまあ、残業なんて月に1,2時間でしたし・・・・だから夜学校にも行けたんだよね」
矢立「夜、学校? 何を?」
高橋「文学部・・・・楽しみのつもりで行っていたから、一人っ子なもので学校って場所が昔から好きなんですよ。でも戯曲なんて専攻していたから、今から思うとこっちの方への潜在的な望みがあったのかもしれない。結局、在学中に虫プロに入ってしまってからは行けなくなって中退してしまいましたが‥」
矢立「年代的なことを確認しておきたいのですが、自動車会社を退職したのが?」
高橋「1963年、昭和の38年・・・・昭和38年がどういう年かって言うと、僕の記憶の中で大きいのはなんといっても力道山が死んだことかな。特別プロレスファンというのではないんだけれど、とにかく驚いた。もちろん[鉄腕アトム]の放映も記憶には残っているんだけど、これは僕の中では驚きというより自然の成り行きだった」
矢立「自然・・・・の成り行きですか?」
高橋「もうすでに漫画は卒業している年齢なんだけれど、当時は中学を卒業する頃から漫画から離れるのは普通のことだったんだよね。ただ友人と『日本でテレビで漫画映画をやるとしたら“アトム”だよな』なんて数年前から話していた。その予測が当たっただけだった。その時点ではよもや自分が虫プロダクションに入ろうなどとは予想だにしなかったわけです」

昭和38年と言うのは私にとって社会的にはそう記憶に残ることが多い年ではなかった。しいて言えば犯罪で[吉展ちゃん事件]、英国陸相の秘密漏洩事件の[キーラー嬢事件]、ソ連の女性宇宙飛行士のテレシコワさんが宇宙から『私はカモメ』と言ってきたことぐらいであろうか‥。ちなみにビートルズの[抱きしめたい]はこの年である。映画は[アラビアのロレンス]に代表される年であろう。テレビアニメは東映の[狼少年ケン]も始まったが当時の記憶は薄い。後日知ったことだが[唐十郎]氏が[状況劇場]を結成したのもこの年だ。虫プロ入社後[W3(ワンダースリー)]で唐氏にシナリオを書いていただき演出としてそのほとんどでコンビを組んだのは2年後の昭和40年のことである。
 

入社して、3日目からは
20日間帰してくれなかった。

高橋「僕の虫プロ入社は翌39年」
矢立「飽きちゃった。という辺りをもう少し詳しく話していただけませんか」
高橋「うーん、ありていに言えばやっぱり会社の中で行ける範囲が見えてしまっていたことかな。ほら、よく3日3月3年っていうじゃない。まあ、3年かけた結論と言うかね・・・・だからやっぱり新天地を求めたんでしょう。失恋もしたし」
矢立「失恋? 会社を辞めるほどの?」
高橋「そうじゃあないけど・・・・まあ、切っ掛けにはなったんじゃないかな。そんなこといいから先に進もう‥」
廣瀬「初耳ですねぇ‥。そこんとこ具体的にお願いしたいですね!矢立さん」
高橋「いいの!」
矢立「いやいやぜひっ!(笑)」
高橋「いいの!関係ないじゃん!いいから先行こう先!」

矢立「好きだった学校へ行けなくなるって、当時の仕事ってそんなに忙しかったんですか」 高橋「入社して、初日が9時までかな、その次の日が10時まで、3日目からは20日間帰してくれなかった。ありかよそんなの!」
矢立「えっ、ずーっと!? ・・・・おい、面白くしようって嘘を言うなよ」

矢立はちょっと不安になったらしい。だが私は嘘など言っていない。
 

高橋「ホントだって! うちは母が戦争未亡人で母子家族なんだ。外泊なんてあまりしたことがなかった。当時まだ家に電話がなくってね連絡がつけられないのに20日間も帰らない。さすがに気の強い母も2週間過ぎた辺りで、“友人から手紙が来ている”のを理由にして連絡を取ってきた(笑)」
矢立「それでもまだ帰れなかった?」
高橋「まあ、周りへの見栄もあったし・・・・そのうちにそんな環境にこっちが慣れてしまった」
矢立「慣れたというと・・・・」
高橋「全てが新鮮で楽しかった。入社して1年の制作進行時代は無我夢中、その翌年[ワンダースリー]で演出になったときも死ぬかと思うほど働きました。1週間の睡眠時間が10時間に満たないなんてこともありましたよ。実際に死に損ないました、というよりあれは臨死体験のようなものだなあ これがこのまま進むと心臓が止まって、『ポックリ病です』なんて言われるんだろうなあ、なんてところまで行った。・・・・ま、でも、だからこそ、あの神様だと思っていた手塚治虫と動画机の足置きを枕にして並んで仮眠を取る、なんて経験ができた。私の記憶の宝物・・・・心の財産ですよね」
廣瀬「そこんとこも詳しく教えて下さい」
矢立「うーんそう?聞きたい?じゃあ聞こうか?」
廣瀬「聞きたいですね」
高橋「これ以上は勿体無くてあんたらになんか話せないよ」
矢立「勿体つけやがって、いいよ聞きたかないや!」

矢立は心底うらやましそうな顔をした。この世代は大体が手塚治虫を神様だと思っている。矢立は虫プロ経験がない、ざまあ見ろである。
 

直ぐそばに居た同世代の
才能を見せ付けられた・・

矢立「虫プロを辞めた理由はなんですか? まだ倒産って時ではなかったでしょう。ひょっとしてまた失恋?」
高橋「バカ言え。ま、経営も少しは怪しくなってはいたけど・・・・才能の問題。虫プロでは演出だったんだけど、世代の上の先輩たちはともかく、直ぐそばに居た同世代の[出崎統][波多正美]などという人達の才能を見せ付けられたから・・・・こいつは敵わないと思ってしまった。それからは仲間とCM会社を作ったり、そこを辞めてアングラ芝居の世界を覗いたり、色々していた」
矢立「ほう」
高橋「そうそう、サンライズ初代社長のきっちゃんも[ワンダースリー]でちょっと演出に手をだしたんだよ」
矢立「えっ、岸本さんが!?」
高橋「ホンのちょこっとね、1話だけだったかな。すぐ制作に戻っちゃった。柴さんもだよ」
矢立「えっ、柴山さんも!? じゃあ柴山さんも出戻りのクチなんだ。 何か訳でも?」
高橋「結論から言えば、制作のほうが合ってたということだろうけど・・・・僕が見たところではコンテが辛かったみたい」
矢立「コンテが辛い。どういうことですか?」
高橋「アニメの演出にはコンテ作業と言うのが付きものじゃない。絵の苦手な人にはこれが結構辛いの。2人とも絵は描けなかったからね。もちろん演出の本質はコンテの絵の上手い下手とは関係ないんだけれど、実際には絵のかけない人はこれが作業として結構辛い。自分の頭の中に描くイメージがコンテに直結しないんだから・・・・だから脇で見ていて相当苦しそうだった」
矢立「ふーむ。でコンテを書かなくていい制作に戻ったと・・・・」
高橋「理由の全てではないけど、結構パーセンテージは高いと僕は見たね」
矢立「そういう高橋さんは? 経歴としてはアニメーター時代はありませんよね。その辺の苦しみは?」
高橋「あったあった。コンテが苦しかった。(笑)・・・・でも僕の場合は絵が描けないのが苦しいんじゃないの、だって僕は虫プロの試験はアニメーターで受けて、アニメーターで受かったんだから」
矢立「ウッソー! マジ!?」

どうも矢立は本当に驚いたりすると素が出る傾向がある。私に文句なんか言えないよな。

矢立「んじゃなぜ?」
高橋「なぜアニメーターをやらなかったか? 座りっぱなしの作業が辛かったから・・・・アニメーターって、あの“飼い葉桶”なんて言ってたフード付の机にしがみついていなければ商売にならないんですよ。何が辛いって机に座りっぱなしと言うのが僕には一番辛い。それで辞退した。絵を描くのは嫌いじゃなかった。[まんが日本昔ばなし]なんか演出だけでなく結構自分のキャラクターデザインで、自分で作画していたんですからネ」
矢立「えっ、ええええ! 自分で作画していたあ!? お前があ!?」
高橋「おいおい、“お前が”はないだろうが矢立君(笑) 作画だけじゃなく、虫プロを辞めた直後は某学年誌に漫画を連載したり、某雑誌に政治一コマ漫画を書いたり、某バイク雑誌にギャグ漫画を連載したり、と結構いろいろやっていました」
矢立「ゲゲゲゲゲ、お前があ~!? 信じられねえ! 何でそんなことやってたんだ!」
高橋「おいおい、君には慎みというものはないのかねぇ‥。まあ、食うため、[まんが日本昔ばなし]は、“あかばんてんの家賃を出すため”あえて言わせてもらえば、創業者の皆さんが口をそろえて言うところの“ハングリー”って奴ですね」
矢立「お前からハングリーなんて言葉が出るかねえ!」
高橋「お前お前って、インタビューアーがゲストに連発していいのかよ」
矢立「もういい! おためごかしの丁寧はやめだ。いつものやつで行こう、いつものやつで」

矢立は言うなり店のお姉さんを呼んで焼酎に切りかえた。

矢立「でさ、絵を描くのが辛くないってんなら、絵コンテの何が辛かったんだ」
高橋「今のテレビのアニメ演出の出来は、よかれ悪しかれ絵コンテで決まるパーセンテージが高い。ま、不幸にして絵コンテの出来不出来を見る目だけはあったんだな僕には・・・・波多さんや統ちゃんの絵コンテと比べると相当に落ちる。それが自分自身で見えるのが辛かった。だからなかなか筆が進まない。進まなければスケジュールを圧迫するそれがまた辛い」
矢立「フリーの演出の収入てのは絵コンテのパーセンテージが大きいんだろう」
高橋「大きい。だから富野さんなんか昔絵コンテを描きまくっていた。“絵コンテ千本切り”の話は有名だよね。安彦さんも絵コンテは早いよおー。[ゼロテスター]の絵コンテマンはこの二人に加えて石黒昇さん、この人も富野さんの向こうを張るぐらい早かった。まあ、そういう人たちの力を見せ付けられていたから絵コンテにはなるべく手を出さなかった‥」
 

ヒッピー文化も終焉期、
髪を長くして髭なんか伸ばしてた

高橋「話を戻すとテレビシリーズの演出に才能の限界を見て虫プロ出身の友人と三人で[有限会社グループ・ダート]を創った。主にCM制作の会社をね でもCMにも直ぐ才能の限界を感じて・・・・」
矢立「直ぐ感じるやつだなあ」
高橋「で一人抜けて、アングラの芝居を覗いたりしながらブラブラしていたんだよね」
矢立「その頃か、[東京キッドブラザース]とヨーロッパ行ったりしたのは?」
高橋「うん。それが1971年・・・・大久保清の事件があった年。その前の年には三島が腹切っている」
矢立「おーおーおー、そうだった!」
高橋「ヒッピー文化も終焉期だったけど、髪を長くして髭なんか伸ばしてた。で、ブラブラしてるときに沼本さんに呼ばれてユタカの上のスタジオに遊びに行ったら[ゼロテスター]の企画をやってたんだ。[ハゼドン]が終わった段階で統ちゃん(出崎統)はマッドに戻っちゃって、監督がいない。お前ブラブラしてるならやれってことで 監督ならコンテは誰かに切ってもらえばいいからって、まあ引き受けちゃった。あ、1話はねコンテ切ったよ自分で。で、現場に入ったら沼本さんはもう辞めちゃっていないの、詐欺だと思ったね」
矢立「それが1973年か‥‥で演出として才能無しと自己判断したお前が監督やってどうだったのよ?」
高橋「俺の監督も初めてなんだけど、他のセクションのそれぞれの監督職も初めての人ばかり、楽しかったよワイワイがやがやと。それに無収入から一気に毎月定収入が入ってくるようになったから毎晩酒盛り、体力ある盛りだからホント毎晩。楽しかったなあ‥」
矢立「楽しいのは分かったけど、どうだったんだよ初監督としてはよ」
高橋「それが僕って不幸! まあ最初は初監督なんだからこの辺でいいんじゃないのって、自分に甘いたちだから自分で合格点を出していたんだけど、翌年の1974年の秋に[宇宙戦艦ヤマト]が始まった。例の私のその道の師匠の柴山さんが制作担当をやってると言うこともあり冷やかし半分で放映を見てガーンとショックを受けてしまった」
矢立「よく出来ていた」
高橋「よく出来ているとか出来ていないとかってことでなく、今までのテレビアニメーションにはない何か! 一つ突き抜けたって言うか、新しい地平を開いて見せてくれたという、そういうショック」
矢立「ほう・・・・まあその後結果は出たわな」
高橋「それで、監督も諦めた。やめた。才能無しということで」
矢立「よく自分を見放すやっちゃなあ」
高橋「自分に厳しいから」
矢立「ウソをつけえー!」
高橋「まあまあま・・・・それはともかく次に始まるシリーズ[勇者ライディーン]には強く慰留された記憶がないから創業者の才能を見抜く目には確かなものがあった。それでまたブラブラが少しあり[あかばんてん]を創って・・・・なんとなくお茶を濁し始めたんだが、次に何をやっていいかが見つからない」
廣瀬「[東京キッドブラザース]とヨーロッパ行ったという話って、昔から何度も聞くんですけど、いつも“行った”という話だけですよねぇ?なにか具体的な事柄はないんすかね?面白い話は‥」
高橋「‥‥‥‥?」
廣瀬「あるでしょう何か。女出入りとか、大立ち回りとか、ポン引きに引っ掛かったりとか?」
高橋「ない!」
廣瀬「なはずないでしょう」
高橋「[アトムの遺伝子ガンダムの夢]に関係なし‥‥次の話題にしようか」
 

こういう余計なツッコミをするから問題なんだよな廣瀬君はあ~。[あかばんてん]を創ったけど、やるべき目標が見つからない私をよそに、何となくいつの間にか[あかばんてん]に居ついてしまって[ファントーシュ]と言うアニメと特撮のグラフ雑誌を創刊したのがこの廣瀬君である。まあ、とにもかくにも[ファントーシュ]はアニメ雑誌の先鞭をつけた雑誌であることは間違いない。でも性格よくないよー廣瀬君。
 

ロボットものは嫌いだ
ロボットものだったら作らない

矢立「じゃあ次行くよ(笑)。一方サンライズではライディーンはヒットしサンライズのロボット路線は順調に流れ始めた」
高橋「うん。逃げ出した僕はアニメの監督や演出をやりたくない一心で『ロボットものは嫌いだ。ロボットものだったら作らない』と宣言してサンライズとの距離を取ろうとしていた」
矢立「あの頃長浜作品が一世を風靡したよな」
高橋「1975年から1979年までの数年間がテレビオリジナルの“巨大ロボットもの”の真の意味で華の時代かもしれない。1975年以前は[マジンガーZ]の時代で1979年に始まる[機動戦士ガンダム]でロボットものは又別の時代に突入すると言うのが僕の考えだ」
矢立「と言うことはすなわちその5年間はサンライズにとって[長浜忠夫]の時代ということか」
高橋「そう言えると思う。長浜さんについては強烈な思い出が多いが、ラッシュ試写のときに自分で登場人物の声色でアテレコをやるのにはびっくりした。あの髭の中年男がよ、妙に甲高い声を絞り出すようにしてヒロインの演技をするんだよ、ビックリこいたね。虫プロにはその手の演出や監督はいなかった。でも考えてみれば非常に理にかなっているんだね。ショットのタイミングも掴めるし、情感の流れも分かるんだね。ただ恥ずかしかった。ただひたすら恥ずかしかった!」
矢立「長浜さんは人形芝居出身だと言うね」
高橋「らしいね。あの頃活躍していた人はアニメ直結と言うのはかえって珍しい。実写を目指していたり、漫画家を目指していたり、芝居を目指していたり、ま何かに挫折したりと・・・・言ってみれば異種配合の趣がある」
矢立「それの方がエネルギーがあるのかな。今は磨きの作品が多いか」
高橋「磨きの作品?」
矢立「磨きってのはつまり‥‥新しい内容のあるものを作るってことより、作画も演出も含めてすでに在るものの洗練に重きを置くって言うか、つまり、オリジナルなエネルギーが感じられる作品がすくねえような気がするんだが」
高橋「一概には言えないが、あるかもしれない。・・・・あと、突然長浜さんから葉書が来て『次の何々の何の回はぜひにも見てください。巨大ロボットもので初めてアクションのない回を作りました。これは画期的なことでうんぬん』と書いてある。何となく気持ちは分かるのだけれど、なんだかなあ・・・・そんなことをして誰が喜ぶんだろうと思ったことがある。でも、これって、書生っぽさを失わない情熱の発露でもあるから、微笑ましくもあった」
矢立「むこう気が強かったね」
高橋「ははは、そう。その頃忘年会でね観光バスを7、8台も仕立てて温泉にいったことがあったんだけど。宴会でね進行が長浜さんに絡んだんだ。それで立ち回りになってね、長浜さんは40代も後半なのに20代の進行を柔道の大技で投げ飛ばしたんだよ。それで仁王立ちになって『仕事でもケンカでも受けて立つ』ってミエを切ったの。ヤルもんだなあと感心しちゃった」
 

ピンクレディーを
芸能プロのロボットだなんて

矢立「その後サンライズとの付き合いは・・・・?」
高橋「009まで無し。まあこのときはサンライズが同時に5作品決まってしまったときで又監督が払底してしまって呼ばれた」
矢立「山浦さんに」
高橋「いや、岸本さん。きっちゃんに呼ばれて、最初の話は[ピンクレディー物語]だったんだよ。(笑)それで“ロボットものはやらない”と言う予防線を張っていた僕に先制攻撃で『お前な、ピンクレディーを芸能プロのロボットだなんて言うなよ』と釘を刺されて(笑)、まあお家の事情は分かっていたので引き受けたの。そうしたら一週間後に『あれはやらなくていい。009をやれ』って言うのさ。それで又『いいか良輔、009はロボットじゃないぞ、あれはサイボーグって言うんだ。だからロボット物を押し付けるんじゃないからな』って念を押すんだもん、やらない訳にはいかないじゃない(笑)」
矢立「はははは」
高橋「そこで又僕の不幸に遭遇することになるんだ」
矢立「なんで[サイボーグ009]結構よかったじゃないか、俺好きだぜ。ああ、そうか、スタッフの偉いさんにいやな奴がいたか」
高橋「いやいや、そんなことじゃなくてさ。又自分が仕事をしているときにショックな作品が始まったのさ[機動戦士ガンダム]と言うね」
矢立「ああ、同時期に重なるんだ!」
高橋「うん。忘れもしない四谷の映広で009のダビング作業のときに第1話の放映が始まったの。スタッフと作業の手を止めて見てガーンと来た」
矢立「ガーンと来たか」
高橋「ああ、ガーンと来た。僕がロボットものはやらないといっていたのは自分の監督能力や演出の才能に見切りをつけたからなんだが、多少はロボットもので出きることに限界を見ていたからなんだ。それを見事に突き抜けていた。ショックだった。高をくくれないショックだった」
矢立「ずいぶんと素直じゃねえか」
高橋「そこのところを山浦さんに衝かれたんだな。もっとも又[太陽の牙ダグラム]でサンライズの戻ってくるには1年半ばかりの時間があるんだけれども・・・・」
矢立「お前はずいぶんと山浦さんには思い入れがあるみたいだな」
高橋「うーん。・・・・まあな、今俺があるのは山浦さんが俺をアニメに引き戻してくれた。テレビでオリジナルのアニメを創る面白さに引き込んでくれた・・・・と思っているんだ」
矢立「まあ、それは言える。それは本当だろう。だけど[ゼロテスター]のときお前を呼んだのは誰だと思う?」
高橋「沼本さんでしょ。最初にスタジオに遊びにこいって・・・・言ってたから」
矢立「その沼本さんとこの間飲んだときに聞いたんだがな・・・・岸本さんなんだって」
高橋「えっ!?」
矢立「岸本さんがお前に拘って‥その後も言わなかったが、ずーっとお前に拘っていたんだって」
 

そうだったのかあ‥私の胸の中の“何か”がすとんと落ちて納まるべきところに納まった感じがした。本当のところ[ゼロテスター]で初めて監督として呼ばれたとき“なんで俺なんだろう?俺でいいのかな?”という思いがしたのは事実だった。監督候補がいないと言っても他にいないはずはなかった。きっちゃんが呼んでくれたんだ。ははは、きっちゃんがね、そうだったんだ。

矢立「久方ぶりに岸本さんの話もしたいだろう」
高橋「ああ・・・・」
矢立「でな、俺が次のゲストも選んでおいた」
高橋「誰!?」
矢立「半藤さん。スタジオユニの半藤克美さんよ。この人なら岸本さんの話をするのにもってこいだろう」

と言うことで次回は[スタジオ・ユニ]の総帥がゲストでゲス。

 

【予告】

次週は、背景美術プロダクション[スタジオ・ユニ]の半藤克美氏の登場。虫プロに始まり、草創期のアニメーション制作プロ誕生を目の当たりにした半藤氏のお話しにご注目あれ!

【リョウスケ脚注】

セピア
上井草駅南口にある駅から8秒一呼吸の距離にある喫茶店。もう都内でも珍しくなってきたふた昔ぐらい前のタイプの喫茶店。昼飯時やテニス帰りのおばさん達(ギャルは来ません)で賑わうときがあるが、おおむね空いている。私はここの[鳥の照り焼きステーキ]や[カレー]でちょっと時間を外した昼食を週刊誌をパラパラめくりながら取るのが好きである。そうそうハヤシもあるでよー、と言っても分からないか。セピア特製[ハヤシライス]も結構いける。

おいしんぼ
上井草駅前の関東バス荻窪行きもしくは阿佐ヶ谷行きバス停を10数メートル進行方向に越した左側にある居酒屋。味と値段のバランスが良いせいか結構繁盛している。サンライズの中間管理職が最も愛用する店でもある。まあのん兵衛は店によって食べるものがだいたい決まっているものだが、顔を覗かせると「ゴーヤチャンプルーね。ギャハハハハ」となぜか大笑いで迎えてくれるお姉さんを私は贔屓にしている。

唐十郎
最初にお会いしたときは、剥きたてのピンクのゆで卵に目鼻をつけたような童顔でしたので年上とは思わなかったのですが、あとでお聞きしたら学校も先輩でした。[W3]のシナリオライターとして参加していたのですが、まあ、正直手塚作品との相性は悪く、手塚先生の直しが出るのですが、かわいい顔なのに結構凶悪な眼光で睨み返し簡単には自分の主張を変えません。暴力的なことにはめっぽう弱い先生は「ああ、あとはリョウスケさんよろしく相談してやってください」と逃げてしまって、それが縁で[W3]に限っては私が主に演出を担当しました。このときまだ唐さんは紅テントを手に入れておらずそのお金を溜めるためにライターもしていたとお聞きしました。旅回りの金粉ショーの話が面白く、氏の踊りの師匠の土方巽氏のところに弟子入りについていってもらったのですが、あいにく不在でした。あの時土方巽氏が在宅だったら私の人生も変わっていたかもしれません。

W3
私が演出として参加した最初の作品。虫プロ始まって初めてのオール外注作品で、あらゆることに破天荒な作品と言うか制作班だった。虫プロの主力スタッフはほとんど[ジャングル大帝]に掛かっていて、W3班は二軍三軍四軍扱いだった。ジャングル班の女性スタッフなどは“危険だからあの連中と口を利かないように”と言われていた。入社半年の演出助手がどこからか持ち込んだ“学徒出陣”のフイルムをイメージ映像として入れ込み、手塚先生がそれを外すよう一晩かけて説得したが、涙をこぼして抗議し頑として譲らず、結局はそのまま放映されたと言う、逸話が残っている。つまりはそれほどに自由というかムチャクチャであったと言うことである。余談であるがその頃富野喜幸(現由悠季)氏もスカスカに間引きされたスタッフとともにアトム班で孤軍奮闘していたのを思い出す。

出崎統
まあ、一種の天才でありましょう。映像芸術と言うものはある意味で時間芸術でもあります。才能ある演出家はその人の独得の“間”と言うか“リズム”と言うか、があります。統ちゃんは“止め”ても“動かし”てもこれが素晴らしいんですね。この人のゴルフがまたとんでもないフォームから独得の間で打つんですが、これがなかなかのもの。でもフォームはとんでもないですよ。自分では個性的といっているんですが・・・・。まあゴルフはともかく、演出家としてはその個性も才能も私にとってはうらやましい限りです。

波多正美
W3では外注の作画さんとして参加したのですが、後に演出もし、これが素晴らしかった。でも特筆すべきは手塚先生がアメリカにお出かけになったときキャラクターの作成を依頼したことです。手塚先生はキャラクターには厳しく、自分でもかなり神経を使っていらして、先生からキャラクターを貰うのが制作として一番大変な仕事と言われていました。その先生が不在中は波多さんに任せるとおっしゃったことがどんなに大変なことかは当時の人なら納得のことと思います。私はその後[悟空の大冒険]で氏のアニメにおける才能を見せ付けられ、もっとも波多さんは見せ付ける気などさらさら無いんですけど、まあ自分の才能に限界を感じてしまって、それが虫プロを退社する一つの要因ではありました。

有限会社グループ・ダート
虫プロ退社と同時に[吉田孝雄][辻本幸七][高橋良輔]の三人で設立。最初は西武池袋線の練馬、そして次に中村橋、やがて四谷三丁目と発展と共に場所は移って行きましたが、私は中村橋の時点で辞めました。なかなかに勢いがあり可能性のあった会社だったのですが、更なる発展を夢見てインドネシアに合弁会社を作ったのが、裏目に出て残念ながら倒産という結果を見てしまったのですが・・・・この会社のなんとも言えない会社らしくないところの味が忘れられず、後年の[あかばんてん]創立のイメージの原点はここにあります。ちなみにグル-プ・ダートのダートはむろん競馬のダートコースのイメージで、その頃の競馬ではダート競馬は2線級のイメージが強く、まあ『どうせ俺たちはダート馬よ』の諧謔を込めたものでありました。

東京キッドブラザース
1971年春から夏この劇団とともに私はヨーロッパに行った。頭に30万円払って参加すると後は毎週給料と言うか現地での生活費が支給され、移動以外は自由な行動が認められていた。この間とてもとてもとても豊かな時間をもつことが出来た。今はキッドブラザースの全てに感謝している。だが当時はそうは素直になれなかった。直ぐ泣くキッド達(劇団員)にも、直ぐ泣かせる東さんにも ずいぶん時がたち、私があるアニメの主題歌の作詞を依頼したとき、渋谷のホテルのロビーで東さんが『僕はあの頃の全ての人に謝りたい』といったことを思い出す。そして『アニメの歌を作ったら、息子にメチャメチャ自慢できる』と言ったときの、人懐っこい目を思い出す。生き急いでる感はあったが、死んじゃったなんて信じられない。

 

  • Facebookでシェアする
  • Twitterでシェアする
  • Lineでシェアする

← 第06回へ                            第8回へ→