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はるかの星【第12回】
アイと里佳子ちゃん、そして私とで実験を試みてから数日が経過した8月の半ば。
本来であるなら秋口に向けて秋ものの服を陳列したり、制服の用意をしたりするのが立秋から処暑にかけてのあるべき姿なのだろうけど、ここ最近の傾向で言うなら、まさに夏本番はこれからといった具合のディスプレイしか見ることができない。まだ暑い時期に誰がカシミアのコートを買うというのか。
しかし、いつまでも夏の暑さに参っているわけにもいかない。私にとってはまだ半分残っているとはいえ、貴重な夏休みを無駄に過ごすわけにはいくまい。こんな好都合な魔法のランプを手にしてしまったのだから。
実験の成功を目の当たりしてからというもの、私はことあるごとに『はるかの星』に願いを託した。
「今晩のデザートはメロン」
「おこづかいをもらった」
「ワタルが炊事を代わってくれた」
「私の大好きなモチモチアゲパンをいっぱいもらった」
そのどれもが規模は大きくないが、わたしの生活上、かなりプラスに作用する事柄ばかりだ。これが実現していくさまは、たしかに不思議の一言に尽きる。なにか説明を付与しなければいけないというのであれば、アイや里佳子ちゃんが、私の話を聞いた当初、それこそ電話口なのに示しを合わせたように言った「偶然」の一言でしか片付けることはできない。
それに、書き込んでからその未来日記が実現するまでの時間が、明らかに以前より早くなってきている。
最初は、書き込んでから半日くらい待たないと、ソレが実現することはなかった。が、今となっては書き込んだすぐあとには、ソレが現実の出来事になっているのだ。なんという即効性。ま、起こる出来事の内容にもよるけど。
それと同時に、私の中で生まれ始めていたモヤモヤした、なんとも言葉にしがたい感情は、夏の日陰に救いの場を求めるネコのように、ひっそりと隠れて、出てくることはなくなった。
さて、今日はどんな願いを叶えてもらおうかな。
連日、真夏日更新の新記録を打ち立てた太陽にドクターストップがかかったのか、今日はめずらしく雨。夏独特の暑さをまとった水滴たちが、まるでミストサウナにでも入っているような霧雨で振り続けている。
起きぬけで頭がまだ起動するためにガリガリと音を鳴らしている私に、それを教えてくれたのは、日課となっていたロードワークを雨天のため取り止めているワタルだった。
「なんだかね。洗濯物も乾かないし、外にも出られないし、こういう日に限って部活は休みだし」
持て余した力のはけ口を、ゲームではなく、部屋の掃除にあてるだけ、この青年は真面目だ。しかしワタルよ、そんなにふさぎこむ必要はないのよ。私には魔法の星がついているのだからね。雨を止ませることなんて造作もないことさ。
電気もつけていない薄暗いキッチンを光が照らす。わざわざ電気をつける必要はあるまいて。私は、なによりもまず「はるかの星」にアクセスをして今日の未来日記をしたためる。
『今日の天気は、晴れ!』
なんの根拠もない軽い気持ちで、小学生が雨だから校庭で遊べないときにしか書かないような稚拙な文章の日記を投稿した。
午後は晴れる。となると、どこかに出かけようかな。
シャワーを浴び、ドライヤーで髪を乾かしながら色々考える。今日は、そうだな、バイトで使うメモ帳を買いに行こう。それで、帰りに今日発売の雑誌を買って帰って、お母さんの作る夕飯を食べる、あぁ、なんて平和な一日なんでしょ。この日々を過ごせるだけで、私はじゅうぶん幸せですよ。なんて、私は自分の17年間の人生で悟った、私なりの至福の時間を脳内再生させる。そうだ、どうせワタルのやつ今日部活休みなら、アノ自転車を借りよう。これなら駅まで相当早くたどり着けるはず。
一時間くらい……かな。お風呂に入って、髪を乾かして、漫画読んで……冷蔵庫でキンキンに冷やしておいたサイダーを飲みながら眺める窓の外では、まだ雨が降り続いていた。
あれ? この手の願いは、すぐにでも叶うはずなんだけどな。
過去に、ワタルに部屋の掃除をやらせたときも、おこづかいをもらったときも、それより何より、同じ願いを以前にしたときも、すぐに晴れたはず!?
今日は願いが叶うのが遅いんだ。きっとそう。カラカラに乾いた地球にも水分チャージは必要だからね。ダムだっていつまでも空っぽのままはダメだもん。私まで干上がっちゃうよ。
早くも右手の中で結露しはじめたサイダー入りのグラスを持って二階に上がると、さっきまでせわしなく動き回っていたワタルが、大の字になってベッドに横たわっている。
「あれ、部屋の掃除は?」
「ん? 全部終わったよ」
はやっ。まぁ、もともとそんなに汚い部屋ではなかったので当然といえば当然か。
「ついでに私の部屋キレイにしない?」
「えー……却下」
「ちぇっ。あ、そうだワタル、あとであんたの自転車貸してくれない?」
「え? かまわないけど、今日は一日中雨だぜ? 天気予報確立90パーセント」
「10パーセント、雨は降らないんでしょ?」
「まぁ、そりゃそうだけどさ」
「ほら、かぁぎ」
チラッと窓外を見るワタル。本当に出かけるの? そんな問いかけるような目で見てくるが、私は晴れることを知っているので何の躊躇もなく右手を突き出した。明らかに私を信じていない目でむすっと一瞥し、自転車の鍵をひょいっと投げてきた。
「大切に使ってくれよ」
もちろんだとも。
部屋で外着に着替え、出発の頃合いを見ることにしよう。そうだ、まだ読んでない本があったっけ……暇つぶしにちょっと読むか。
最後のページをめくり終え、本を閉じたときにはもうすでに13時近くになっていた。
……やっぱりおかしい。雨が止まない。
それどころか、午前より勢いを増して降っている。バケツをひっくり返した、までは言い過ぎかと思うが、最近では稀なほどの豪雨だ。これは……出かけるの、止めておいたほうが良いかな? 家を丸ごと洗っているような雨、屋根に上がり洗剤でもばら撒けば、家はピカピカになること請け合い。いっそのこと汚くなってきた窓を洗ってしまっても……くだらない思いを窓外に向けて巡らせていると、降り続く雨音の不規則な音に混じって、弟が私の部屋のドアを規則正しいリズムで三回叩き、
「お姉さん、お昼食べますか?」
ご丁寧に、私をランチに誘ってくれた。
一緒にお昼を食べているワタルの顔が『ほれみたことか』と言わんばかりに歪んでいく。いつもなら雨が止んで、雲間から太陽が覗き込んでいてもおかしくはないはずなんだ。それこそ、ここ数日は私の願いが受け入れられていたのだから、今日もそうなるとばかり思っていた。
時間は14時。今さらどこへ出かける気も起きない。私は観念して、先ほどワタルから受け取った自転車の鍵をそっと返した。
「まぁ、賢明な判断ですよ」
「はるかの星」にアクセスしてみても、私の願いが叶った形跡はない。
願いが叶う場合、何かしらの変化が惑星に起こるからだ。そして、今回の私の日記に対するリアクションは今のところない。うちのお店で爆発的なヒットを飛ばしているモチモチアゲパンを無料で手に入れたあの日以降、願いが叶わなかった……もとい、未来日記が現実にならなかったのは、今回が初めてだ。
おかしいなぁ……なんでだろう。
晴れない空には一層その厚さを増す雨雲が、これでもかといわんばかりに広がっていた。
明けて翌日。雨はその強さを弱めたものの、依然として止む気配はない。
快晴を待ちわびているのは、私たち学生のみではない。大人だってそうさ。こと、自転車くらいしか交通手段を持たない人にとっては尚更でしょう。お母さんだってそのはず。
「はるか、目玉焼きと、卵焼きはどっちがいい?」
台所から軽快な包丁のストロークの音が響いてくる。このじめじめした天気はどこ吹く風。私の家の中は至って普通に、いつもどおりの変わらない風景が広がっている。母がいて、朝食を作る傍ら今日のテレビ番組欄を、ダイニングテーブルいっぱいに広げてチェックするのが、何気に私の日課だ。
「はい、出来上がり。新聞しまって……もう、見るのはテレビ欄だけなの?」
私が新聞紙を脇にどけるまでもなく、新聞配達所から出荷された状態の四つ折りに畳んで脇にどけると、お母さんはため息混じりに肩を落とした。
「ワタルは?」
「もう出てったわよ。部活、近く大会があるんですって」
「ふーん……」
そういえば、夏の大会がどうのこうのと昨晩言っていたな。レギュラーといえど、日々の練習による技術の蓄積がなければ、すぐ他に抜かれて行ってしまうんだそうで。だから、ワタルは自分に鞭打って練習に明け暮れているはずだ。
「ごちそうさま」
「ちゃんとかたすのよ。あと、はるか今日どこかでかける用事ある?」
「ん? ないよ」
「そっか……」
「なんで?」
「出かけるのならついでに、醤油、買ってきてもらうと思ってね」
外で雨が降っている音がするこの状況、誰が好き好んで外に出るというのか。
「えぇ~、ワタルに帰りに買ってきてもらおうよぉ」
「あの子、今日は遅くなるらしいわよ。ま、いいわ。醤油を使わない晩御飯を考えれば、ね。どの道、明日はパートに行かなきゃだし」
「っていうか、誰? 最後に醤油使ったの?」
なにかなくなる前に言えとあれほどいっているのに。私に覚えがなく、お母さんがこの状況に気づいたということは、ワタルに他ならないのだが。
「え? あぁ、台所のテーブルにあった醤油使ったの俺だよ! 卵かけご飯食ってさ。え!? もうないの?」
電話口だが、遠くの方でやたらとキュッキュッグリップする音と、ダムダムとボールをつく音が聞こえる。体育館内で逃げ場を失った靴音のSEが受話器という数少ない出口めがけて飛び込んでくる。わたしの耳は、ワタルの肉声を捕まえるのに精一杯。
キュッ、キュッ、ダムダムダムッ。
練習中ですか?
「今は自主練習中。今日は他高校の試合を観に行ってから帰るから遅くなるんだよ。それでさ、姉ちゃん」
学校にある公衆電話から家に電話をかけてきているらしい。確か学校案内のパンフレットに記載のあった体育館にはエントランスがあって、そこに受付やら休憩室やらシャワールームやらがいっぱいある豪華な施設だった気がする。電話もあって当然か。
で、なんだ? 嫌な予感しかしないぞ。
「玄関横に手提げ袋みたいなの置いてない?」
「手提げ袋?」
ふと受話器から耳を離し、左右を見渡す。玄関口で大声を張り上げている私を気にしてか、はたまたお昼のワイドショー目当てに居間に移動するためか、お母さんがのっそりと私の顔を覗き込んだ。目で合図をすると、何か心当たりでもあるのか、一瞬視界から消え、また一瞬のうちに私の視野の中へと舞い戻ってきた。手には、確かに小さな手提げ袋……あ。
「ごめんごめん、昼飯持ってくるの忘れちゃって。悪いんだけど、届けに来てくんない?」
「は!?」
「昼の休憩が13時からだからさ、余裕で間に合うよ。ごめん、こんど炊事当番代わるからさ、よろしく!」
「え、あっ、ちょっと……」
言いたいことをひとしきりまくし立てて、電話は私の抵抗むなしく切れてしまった。
……お母様、なぜにそのような笑顔で私のことを見てらっしゃるのかしら。
「醤油、よろしく」
1000円札を右手に、手提げバッグを左手に預け、お母さんは居間へと消えていった。
現在時刻、11時32分。二葉明星高校まで20分はかかる。雨を考慮に入れても30分くらいだな……チクショウ、余裕で間に合うじゃないか。
ここでぶつくさ文句言っていても始まらない。今頃は練習に汗を流しているワタルを、あまつさえ全館放送で呼び出してもらい、お小言を並べるほど私には余っている気力はありませんから。1000円のおつりをお小遣いにしてもいいという条件をのんで、いつもワタルがこなしているクロスカントリーを、雨天に決行することとなった。
高校へのお弁当運搬ミッションをこなしたあとも、雨は止むどころか勢いを増すばかり。ずぶ濡れになりながら畑道自転車を走らせ、集合中宅地の中へと入っていくと、途中から舗装された道路沿いにいろんな商店が軒を連ねる商店街に出た。
幼い頃、私たちの遊び場になっていた『木漏れ陽通り』だ。
商店街とはよく言ったもので、軒を連ねるお店といえば、新聞の専売所、理髪店、呉服店、電気店、青果店に花屋さん、精肉店、動物病院にパン屋さんと、なんとも地味な顔ぶれだ。しかしながら、遠くのショッピングモールまでは自転車でも結構な時間がかかり、集合住宅地のど真ん中という立地条件もあいまって、地域住民には重宝されていた。
ちせ婆ちゃんの駄菓子屋はそのアーケードの一番奥にあり、地元の子供たちの憩いの場となっていた。買い物中のお母さん待ち、学校帰り、多くの子供が集まって賑わいを見せていたのだが、近年できたショッピングモールのあおりを受けて、最近では昔のような光景を見ることはない。
歩いて来るのであれば、時間にして約10分。高校生になってから訪れる機会はめっきり減ったが、中学三年生まで通っていた馴染みの場所だ。
三橋用水路突き当たりにコンビニや駅ができれば、ここら辺一帯も賑やかになること請け合いだろう。ショッピングモールだって目じゃないはずだ。そうしたら、この商店街もどんどん賑やかになっていくはず。
しかし、いくら雨がひどいとはいえ、もうすでに店終いなのかな? あ、醤油もここで買えたんじゃ……駄菓子屋さんでは無理か。ただでさえ人影の少ない通りの一番奥にあるこの駄菓子屋がシャッターを閉じていると、夏休みに遊び場を失って彷徨う小学生や中学生の姿もほとんど見受けられない。
店の前に差し掛かり、ペダルを漕ぐ足を止める。なんか、寂しいな。後ろを振り帰っても、人影はまばらだ。本当に夏休みなのかな、今。
やっとこたどり着いたショッピングモールで醤油だけを律儀に購入し、さっさと帰ってシャワーでも浴び、一刻も早くリフレッシュしてやろうと脳内で画策する。そんなこと考えながら、半ばボケーっとスーパーを出た時点で、お財布を手に持ったままになのに気がついた。ポッケにしまわなきゃ。
甘かった。右手に財布、左手には自転車の鍵と醤油の入ったスーパーの袋を抱えながら、むりやり雨合羽のチャックを下ろしたもんだから、チャックが開きっぱなしになっていた小銭入れから勢いよく10円100円玉たちが歩道へと転がり落ちた。
あわてて拾おうとするも風で雨合羽のフードが煽られ、中腰になり小銭集めをしていた私は一瞬吹き飛ばされそうになる。チャックを下ろしてたもんだから、帆船の帆よろしく、盛大に雨合羽はめくれあがり、ほんのり濡れていた服が完全に水浸しになってしまった。もうこの際、濡れることに関してはどうだっていい。私は、早くこの事態を収拾したかっただけなのだが、本当に悪いタイミングは重なるもので、車が側溝にたまっていた泥水を豪快に跳ね上げた。黄砂が雨になって降ってきたんじゃないかってくらいの泥水が降りかかる。ビックリしたのと、なんとかして避けようとした私の体が瞬時に反応し、たまらずガードレールにバランスを崩してぶつかってしまった。ひじを打ち、お出かけ用の服が泥まみれの台無し。びしゃびしゃのぐちゃぐちゃ。アノ野郎と怒っても、怒りのはけ口がない。うぅ、なんか泣けてくるよう。これ、ちゃんと汚れ落ちるかな?
っていうか、もうすでに心は泣いていた。
重い足どりで家に着いたのは、それからまたしても10分近く自転車を漕いでからだ。
「はるか、あんたどんな冒険を繰り広げてきたのよ……」
髪はぼさぼさ、全身泥まみれで、半泣きの高校生が目の前に立っていたら、あなたは彼女になんて言葉をかけてあげますか?
「そのままだと風邪ひいちゃうわね、すぐお風呂はいりなさい」
脱衣所で自分の姿を鏡越しに確認するが、まぁ、なんてザマでしょう。こりゃ確かにひどいな。服だって泥んこだし。
「あれ?」
よく見ると、泥まみれの服の袖口の部分がほつれている。あ、違う、破れちゃってる! もしかして、ガードレールにぶつかったとき、引っ掛けちゃったのかな? これでは、たとえ汚れがキレイさっぱり落ちたとしても、もう着れないじゃない。
お気に入りだったのに……。
著者:クゲアキラ
イラスト:奥野裕輔