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はるかの星【第19回】
西方大宮病院は大宮駅から、歩いて10分、自転車ならものの5分とかからないところに位置する巨大病院だ。ただ、私の家からはだいたい歩いて15分くらいで到着する。これまた自宅からだと微妙な距離ですこと。
元気が資本のワタルのことだ、反射神経いっぱいでギリギリかわせなかったくらいの怪我だろう。捻挫か、ひどければ骨折か。スポーツ選手は生傷が絶えないから怖いよね。
てっきり松葉杖をついて病室から出てくるものかと思い、待合室でずっと座ってまだ見ぬお母さんとワタルを待っていたのだが、待てども待てども二人の姿を確認することができない。5分が過ぎ、10分が過ぎ、次の約束の時間まで30分を切ったところで私はたまらず、受付のお姉さんに私の家族の所在を聞くことにした。
「あの、スミマセン。私、皆藤ワタルの姉なんですが……弟がこの病院に来ているはずなんですけど……」
ワタルの名前を出した瞬間、受付の人の表情が一変するのを、私は見逃さなかった。
「皆藤ワタル君なら……」
『緊急手術室』
想像もできない場所の名前が出た。おおよそ私の一生の中で、少なくとも今まで生きてきた、かくも短い人生の中で手術室という単語を耳にしたのはドラマの中か、大好きだったおじいちゃんが他界したときくらいだ。
足取り早く、駆けるように廊下を進んでいくと、神妙な面持ちで目の前の大きな扉とにらめっこをしてるお母さんが見えた。隣には、見覚えある人影。この前ワタルの学校に行ったとき見かけたバスケ部主将さん、だっけ? あとは見慣れぬスーツ姿のサラリーマンたち……しきりに母に向かって頭を下げている人もいれば、憮然とした態度で腕を組んで突っ立っている人も、そわそわ指をかみながら右往左往している人もいる。
「お母さん……」
ありとあらゆる生気、活力を奪われてしまったような表情のお母さんは、私のほうに顔を向けるのだけで精一杯のようで、かすれる声で、
「はるか……」
とだけ呟いた。
他人が見ても、不憫としか形容のしようがないオーラは、お母さんを中心として、ここ一帯の空気を支配している。
この状況でわかること。それは、目の前に、この世の終わりを迎えたかのような顔をしてうなだれているお母さんがいて、目の前の緊急手術室には恐らくワタルが入っている。そして、今も手術中で、予断を許さない状況だということ。もう少し具体的な説明は、いい大人たちがひしめき合っているこの澱んだ空間の中で、唯一大人の対応をしていたバスケ部主将さんがしてくれた。
「ワタルのお姉さん、はるかさんでしたっけ? 改めまして、明星バスケ部主将の三越です。えっと……どこから説明すればいいのやら……」
経緯を聞く。
二学期を目前に、映画の撮影が本格的にはじまった二葉明星高校。関係者は完全に隔離された状態で、撮影はすでに始まっていたそうだ。2~3週間ほどですべての撮影が終了するはずだった。
しかし、学校側が予想していた以上に、この噂が広まるスピードが速く、安室怜くんの姿を一目見ようというギャラリー、報道関係者が日増しに増えていってしまったらしい。高校サイドでこの問題を完全にクリアにすることはできず、バリケードを作って今まで対応してきたのだが、それも限界に近くなっていた。それでも、二葉に通う高校生たちの青春が阻害されることはない。いつもどおり、吹奏楽の練習をしたり、事務処理を終わらせるために先生方だって登校したりしていた。
もちろん、ワタルもバスケの練習をしに行っていた。
「コートは使えなくても、やることはいっぱいあるんだよ。こと、俺らみたいな弱小バスケ部は、少しでもがんばらなきゃだめなんだ」
いつもと変わらぬ格好で家を出て行くワタルの背中を、私は8時間前に見たんだ。遅刻することもなく、決まった時間で高校に着いたワタルを待ち受けていたのは、悪夢としか言いようがない。
安室怜くんを撮影をするこの機会を狙ってきた報道陣の車。その車にワタルは轢かれた。
「……ちょっと、いいかな」
一通りのあらましを説明し終えた三越さんは、私の背中を押すようにして、手術室から距離を置いた曲がり角まで誘導した。私の脳内では、彼の話が絵付きで生生しく再生されている。
「学校は一連の騒動を警察沙汰にするのを極端に嫌っているようなんだ。自ら誘致した映画が原因で生徒が怪我したとなっては、さすがに“一大事”なんだろう」
そこからの説明は、今は壁の向こうに隠れて見えなくなってしまっている、大人たちがしている会話の説明だった。知らんでもいい大人の事情を説明してくれるのはありがたい。少しでも、私は知りたかったから。お母さんが泣いている理由。いい大人が雁首そろえてぶつぶつと話し合っていること。
信用問題に直結する大事な問題らしい?
テレビ局側もこの不祥事を隠し通したい?
ふざけんな。
本能的に体が動くとき、人の出す力は想像をはるかに超えるときがあると聞いたことがある。私も、怒りに我を忘れれば、バスケ部主将の、私を引きとめようとする手さえも簡単に振りほどくことができた。いまだ手術室前で、人に聞かれないように小さな声で話し続けている彼らに、本能で叫んだ。
「あんたらの不注意で、私の弟は、大怪我を負っちゃったんだ!なによ、あんたら大人の勝手な都合で、ワタルの怪我をなしにするっていうの? 目の前で苦しんでいるワタルに聞いたのかよ? なんでワタルがとばっちりを食わなくちゃいけないの?」
私の声は虚空にむなしく響き渡る。その声に場の空気が変わったのはほんの一瞬だけ。彼らの視線が、ちょっとこっちを向いただけ。三越さんも知っていたんだ、こんな反応しか返ってこないことを。だから、泣いているわけじゃないのに、こんなに声がガラガラなのかな。必死に食らいついていたんだろう。
散々な目にあうのは私だけでいい。こんなに嫌なことが続くことはない。
もしかして、夏休みに、私がいい思いをしすぎたからか?
震える肩で息をしている。自分一人だけヒートアップしちゃってバカみたい。なにか言って、はいそうですか。と現実が巻き戻るわけじゃないのはわかっている。でも、叫ばずにはいられなかった。涙を流さずにはいられなかった。
誰を見るでもなく、私の視線は前を向いたまま。三越さんに背を押され、その場を後にしたときと同じ光景を見つめている。冴え渡っている私の目は、手術室の『手術中』ランプが消えていることを見逃さなかった。
手術室から出てきた主治医が、一気に大勢の人に囲まれて見えなくなる。なにをぼそぼそしゃべっているのか、ココからではうまく聞き取れない。私は、人垣を掻き分け、説明を受けているであろう母の元へと身を寄せた。
「開放骨折でした」
夏だから、というわけではない。でも、いままでワタルの手術を担当していた先生の緑色の服は深緑に変色し、いまだあふれ出して止まらない汗を両の手でぬぐいながら話し続けている。
「ワタルの具合は?」
絞りだすようなか細い声で問いかけるお母さん。
「命に別状はありません。しかし……」
担当医の顔が明らかに曇る。
「なんですか?」
「自力で歩けるようになるか……バスケはもう、できないかもしれないですね」
先生の背後、手術室からストレッチャーで運び出される青年。
その口には呼吸器が付けられ、苦しそうな顔をしながらうなっている。自分の意図の範疇外で、自分の足が今までのように動かなくなることを告げられた。自分の未来を本能的に直感したのか、目頭に涙をためたまま、ストレッチャーで連れて行かれるワタルを、私と母は、ただただ眺めていることしかできなかった。
ストレッチャーの車輪の音が、遠くで鳴り響く、花火の音に飲まれて消えていった。
新学期が始まったというのに、私の気持ちは一向に上昇軌道を描くことはない。あれからワタルは麻酔の効力もあって、一日中、病院のベッドの上で悪夢と戦いながら眠り続けた。
結局、あのあと里佳子ちゃんからの連絡はなく、私たち三人は別々の場所で、3年に一度のビックイベントの時間を過ごすこととなった。アイは自宅へ帰る道すがら、里佳子ちゃんはどこか遠いところで、私は病室の窓越しに、夜空に咲く花火をしかと目に焼き付けた。置かれている状況、境遇は異なれど、共有する時間と空は同じはずだった、ばらばらになっても、私たちをつなぐ糸は、どうか健在であってほしい。
大輪の花を見た私とお母さんは、重い足取りで病院を後にした。
「明日は……私が一日ついているから、はるか、必要なもの持ってきてくれない?」
潤いのなくなった口の中で言葉が絡みつき、うまく聞き取ることができない。疲れは肉体的なものだけではなく、精神的なものでもあるらしい。
「学校終わったら、私もすぐ行くよ」
問いかけるお母さんの顔はどこを向いているわけでもなかった。二人して自転車を押しながら、行きかう人ごみを掻き分ける。喧騒に飲まれ、やはり呟きにしかきこえないくらいの声量のお母さんの言葉が聞こえた。
「もう……夏休みは終わりなのね……」
著者:クゲアキラ
イラスト:奥野裕輔