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2022.01.06

【第11回】リバイバル連載:サンライズ創業30周年企画「アトムの遺伝子 ガンダムの夢」

その11「ザ・プロフェッショナル」
ゲストは大河原邦男さん

今週はアニメ界の中で“プロ十勇士”を選べば、いや“五大プロ”いやいや“プロ3選”を選べばその中に絶対入るのではないかと思っているメカデザイナーの[大河原邦男]氏がゲストである。氏のプロフェッショナルぶりは、つとに斯界では有名である。私もその凄さは目の当たりにしているのであるが、氏とは意外にも仕事の打ち合わせ以外あまり膝を交えて話をしたことがなかった。原因の第1はポイントだけの打ち合わせで充分すぎる仕事が上がってくるので、くどくど話す必要がなかったこと、第2はたぶん車、というのは氏は多摩川を越えたところにお住まいと仕事場を持っている。サンライズに打ち合わせに来るにはいつも車、つまり飲めない。氏は飲めない口ではないらしいんですが。ま、飲まなければ話が出来ないってものではないのではありますが、私の場合は、‥‥ねえ。というわけで、今回は仕事場にお邪魔して打ち合わせ以外のお話を色々と聞かせていただきました。

何となく会社っていうよりは
養成所みたいな学校みたいな‥

高橋「この業界の入り口はタツノコだったんですか?」
大河原「タツノコ」
高橋「タツノコには社員として?」
大河原「社員。1972年の4月。4月2日から出社したんですけど、読売新聞の三多摩版に求人広告が入っていたんですよ。で、制作若干、美術若干名って。で、美術で応募したんですけどね」
高橋「で、美術で入ったと‥」
大河原「中村(光毅)さんの下で。上司は中村さん」
高橋「中村さんもその頃社員だったんですか?」
大河原「中村さんは課長、美術のトップですね。吉田竜夫さんの信頼がものすごく篤い立場だったんで、何かあると『中村さん、中村さん』って社長が頼ってたぐらいの感じだったんですよ。東映からきたんですよね、タツノコ創立の時に。東映では彩色の仕事やってたみたいで絵の具の知識とか色の知識に関してはすごいプロだった・・・・」
高橋「仕上げから背景ですか、珍しいですね」
大河原「あの人は元々メカに関してはピカイチのモノ持ってるから、背景じゃなくても何でも成功できた人だと思うんですけどね」
高橋「それに仕事好きですもんね」
大河原「好きですね(笑)。安彦さんもそうらしいけど」

高橋「大河原さんもきっとそれを引きずってるでしょう」
大河原「我々の育ってきた時代って言ったら、“大人になったら一生懸命仕事する”っていうのは当たり前の教育だったから(笑)」
高橋「僕はちょっとそこから外れて(笑)。いや、まあ教育はそうだったですよね。虫プロに入ったとたんに、虫プロってまあいい処だったんですけど、ある面どうしようもない処だから(笑)一気にタガが外れましたね、僕の場合は」
大河原「タツノコは何となく会社っていうよりは養成所みたいな学校みたいなイメージが強かったですね」
高橋「学校っていうのは虫プロもよく学校に例えられるんですけど、きちんとした学校って感じがしないんですよね。虫プロの場合は教えてくれるっていうより、それこそ学校でいうとね、ちょっと問題児集めて。あんまり規制しちゃうとおかしくなっちゃうから入れとくみたいなね」
大河原「1つの社屋に各部署が全部あった。撮影まで全部社内にあったっていうことが何かそんな感じするのかもしれないですけどね。僕が入った美術課は、中村さんが入ってきた人に対して3ヶ月間はびっちり指導します。それが社内全部にあったっていうことでなんか学校みたいっていう印象は受けたんですけどね」
高橋「虫プロはあんまり手とり足とりっていう感じじゃあなかったですね。他の部門もそうだったですね。アニメーションも全然知らなかったらそれはできませんから、何がしかは教えてくれたんだろうけど、手とり足とりじゃなくて、上手い奴はガンガン上手くなっちゃうけど上手くならない奴は全然上手くならない(笑)ってそういう感じだったですね。それで中村さんの独立と一緒にタツノコは辞めたんですか?」
大河原「いやいや。でも、いずれ中村さんは“外へ出て独立したい”という話をよく聞かされていたんですよ。一緒に飯食いに行く時なんかも、“大河原さん一緒に外に出よう”って話があったんですよ。それでその後があって、まあ一応僕はタツノコに3年間いて4年目で非常勤で専属メカデザイナーということで外に出て。その時期がサンライズさんとの交流ができた時期なんですけどね。僕の方が先に外に出ていて、“中村さんそろろそろどう?”って。まさか課長だからそうすんなり会社は辞めさせないだろうなって思ったんで、一応声はかけてみておこうかなって感じだったんだけど、ある日辞めるからっていうことになって“それじゃあ”っていうことで、年も押し迫った頃なんだけど[有限会社メカマン]を創ったんです。国分寺の日吉町って所のマンションの一室で‥。ところが出資金も同じで(笑)“それだったら給料も同じにしなけりゃいけない”ってことで。僕はその当時稼げないんですよ。仕事もそれほどない。で、中村さんなんかは仕事も多いし僕より3倍ぐらい稼ぐような状況だったんですね。もっと稼いでたかもしれないね。で、給料が同じで仕事の質とか量も違うといたたまれないですよ。こっちとしては申し訳なくて。そんなんで1年一緒にいたぐらいで僕はフリーになったんです」
高橋「美術背景とメカ関係のデザインってどこから分かれたんですか?」
大河原「一番最初から。72年、入った時に丁度[科学忍者隊ガッチャマン]の企画が持ち上がってた」
高橋「いわゆるアニメーションの美術背景ってやってないんですか? もうほとんどデザインの方から?」
大河原「一応何カ月か基本的な講義は受けてたんですよ。でもメカの方やってみないかって。まあ一番新人だったから。それでそれをやりながら背景の練習もしながら。デザインが一寸暇な時は背のみの1枚絵を描いてみないかとかね、そういう関わり方ですよ。だからいきなりメカデザインの世界に入っちゃったって感じですね」

いいアイデアが浮かぶと
夜中に炬燵の中で会議やった

高橋「サンライズと一番最初に知り合った人はどなたですか?」
大河原「栃平さんから電話がありまして、“山浦さんに会ってみないか”ということで、僕は丁度その頃フリーを目指していたんで、ちょっと会わせてもらって。丁度[ろぼっ子ビートン]やってたんでその“内部図解からやってみないか”ということで‥」
高橋「その頃、安彦さんとも顔を会わせたのかしら?」
大河原「顔は会わせてないです」
高橋「会わせてない。あれ渋江さんがプロデューサーですよね。僕もコンテを描いてましたよ。ま、いつものようにスケジュール遅らせて(笑)。赤坂の地下鉄の駅降りてそこのベンチで描いてましたよ(笑)。あそこはTBSの入り口だったな。TBSのチェックに行く前にギリギリ間に合わせるんだよね。もう周りで“何やってんだ、こいつは”っていう顔されてもしょうがないですよ、恥も外聞もなく(笑)」

大河原「アニメってその頃メジャーじゃないからね。テレビ漫画って言わないとわかんないから」
高橋「あのシリーズは渋江さんが“とにかく監督クラスを並べる”って方針でね。僕なんかあんまり役に立たなかったんですけれどね。ビートンからなんですか・・‥」
大河原「でも僕がやったのは内部図解だけですよ。山浦さんの企画、次何やろうかって言う話の方が多かったですね。だからその時もう[ダイターン3]の話を進めてたんですけどね」
高橋「ビートンの次はダイターン3なんですか?」
大河原「そうです。現実に放映されたのはザンボットが先ですけどダイターン3の企画だった」
高橋「東映の下請けの、言ってみれば長浜さんの作品はやっていない?」
大河原「やってないです。メカマンで受けてボルテスの内部図解とかはやりましたけど、長浜さんとじっくりお話したってことないですから。出渕(裕)ちゃんの方がよく知ってると思うけどね」
高橋「出渕さんはその辺からサンライズに・・‥」
大河原「えーとね、その頃はまだ学生だったと思うんですね。“やられメカ”をどんどん描いて持ち込んでたと思うんですよね。東映系の下請けの作品のやられメカは、出渕ちゃんは随分やってたんですよ」
高橋「東映は、彼は違う仕事でも随分やってましたもんね」
大河原「キャリアは長いんですね」

高橋「サンライズの創業者の中では、沼本さんが一番早かったんですね。沼本さんがサンライズからタカラに移籍された後‥、“タカラからタツノコに仕事をお願いする”ってことで‥・・」
大河原「順番からいったら沼本さんが一番早かったかもしれないですね。多分山浦さんと同じ時期だと思うんですけど」
高橋「僕なんかは見てると山浦さんと沼本さんと同じぐらい“濃い”のかなと思ってるとこあるんですけど、やっぱ山浦さんの方が‥・・」
大河原「山浦さんの方が濃いですね。あの人はほらタツノコの裏だったでしょう、住まいが。立川市の若葉町に住んでたんですよ。で、そこの団地に義理の兄貴がラーメン屋やってたんですよ。受け渡しをそこでしたり、家まで取りに行ったりしてたんです。東大和に引っ越してからは夜中にいいアイデアが浮かぶと“今から来い”って、あそこまで車飛ばして行くんですよ。それで炬燵の中で会議2人でやったり。だから、あそこのお子さん2人がパジャマ姿でうろうろしてるところでいろいろしてたんですけどね」

仕事は断らない。人より多くやる。
何本もやらなきゃ所得にならない

高橋「ハングリーってことなんですけど、タツノコ入ってから“辞めようか”“会社創ろうか”“独立しようか”“一人になろうか”‥って、そんな感じありました?」
大河原「この業界に入るときに無職だったんですよ。で、結婚式に無職はまずいんでタツノコになんとなく入っちゃおうって入っちゃったんで。もう入った段階で嫁さんいるわけですから、それで2年経ったら子供もいるわけですから、もうハングリーなんていうんじゃなくて食わせるために(笑)。何本もやらなきゃ普通のサラリーマンの所得にならない世界ですから、仕事は断らないし人より多くやればまあ安い金でもサラリーマン並みに、それ以上になるんでそんなこともあって続いているんですよね。まあ確かに芸能的というか、あの頃に[アニメージュ]っていうアニメーション雑誌もできたし、そういうところに、話題になるような作品に関わってるっていうことでチヤホヤされる。そうすると普通のサラリーマンよりなんとなくいいかなって(笑)いうね、そんなのもあって今まで続いてきたんだと思うよ」

高橋「学校が、後輩が結構いる造形大でしたよね。学校時代、今の職業に定着する前に違う望みとかはあったんですか?」
大河原「あんまりなかったですよ。美大へ入るっていうのも結局普通の大学入っても勉強あんまり好きじゃなかったし、うちは姉さんも兄貴も國學院なんですよ。文学とかそっちの家系で僕はあんまり興味ないし、もう行くとこが他にないんですよ、美大以外に・・‥。で、美大へ行っちゃったんですよね。美大で広告関係グラフィックだと“まあ食えるかな”ということでグラフィック入ったんですけど(笑)入ったはいいけどグラフィックって結構人数多いんですよね。で、ライバル多いから。その頃横尾忠則さんが全盛の大スターだったんで、あれにはなれないから早めにコース変えちゃおうってことでテキスタイルに行っちゃったんですよね。テキスタイルってやってる奴少ないから“ひょっとしたら時代に上手く乗れるかも”(笑)って思ってね。そういう結構チャランポランに渡ってきてるんですよね。だから[オンワード樫山]に就職しちゃったっていう感じなんですけどね」
高橋「ある程度広いストライクゾーンの中ではあるんですね。ようするに一般的な事務系のサラリーマンになるとかそういうことでもなかったんですね」
大河原「“背後霊”がねこうやって行け、行けって(笑)やってたっていう。幅広い中の道は通って来たと思うんですけどね。だから考えてみれば、ほとんど偶然に作用してるって感じはあるんですけど。尤もね、結婚する時に金が儲かる求人っていうのからチェックしてたんです。結局一番金にならないところに納まっちゃったんですよ。だからその頃就職活動結構してましたよ。あっちへ行ったり、京都まで試験に行きましたからね」
高橋「まあ家庭を維持するという出発点はある意味じゃ具体的にハングリーですよね。食っていかなければならないから。経済的に家庭を維持するっていうハングリーからどこかで少し変わりました? 家庭はそこそこ維持できそうだと、後は自分の少しは好みだとか、やりたいことだとか、名前だとか、もうちょっと仕事の質を何とかしようっていうような変わり目ってありました?」
大河原「変わり目ってやっぱり[機動戦士ガンダム]っていう作品に巡り合った時からですね。あれだけメジャーになっちゃうと、あれは出来ないこれは出来ないって言ってられなくなるんですよね。安彦さんが才能豊かな人なんであの人がポスターとかイラスト描くとメカも描かなきゃいけないような状況が作られちゃうんですよね。そうすると、まあ初めはすごく恥をかくんだけど、やっていくうちにどうにか描けるんじゃないかなということで、いろんなことをチャレンジさせてもらったっていう部分で、練習しながら金くれるっていう・・‥」

高橋「他の業界でね、上手いのに、僕らから見ると充分に到達してるんだけど社会に認められないで、ずーっと下積みで、旬が過ぎてやっと社会に認知される商売って多いですよね。それがアニメーションの場合だと技量的にまだこれからっていうんだけれど、作品が売れちゃってるから、まあ言ってみれば注文主も全くこれでいいのかよとか思いながらも商品になっちゃって、で、技量が後から追いついてくるっていうペースがアニメーションの場合多いですよね」
大河原「半分博打の世界ですからね、アニメの世界って(笑)。計算してヒット飛ばせる、そんな天才この業界いないと思うし。ホントに全てこの歳まで仕事できるっていうのはあの時にあの作品に巡り合ったっていうのが一番大きいですよね」
高橋「ガンダムの後、どこかで揺らぎとか、例えばこのままじゃいかんなとか、ありました?」
大河原「考える暇ないくらい忙しかった。あの当時っていうのは販売用のポスターとか雑誌も4誌5誌ありましたよね。だからイラストの注文がものすごく多かったですね。1ヶ月のうち4~5枚描くような状況で作品としても3本ぐらい常時転がしていたから、まるっきり椅子から離れる時間がなかったっていうぐらいな状況なんで、そういうこと考える暇がなかったっていう恵まれてるとこあったんですよね。今ですよね、今ある程度余裕が出来て考えると、“俺やっぱりアニメの人間じゃないな”と。今になってはっきりと解ったね」

“僕が好きな仕事”と
“需要と供給”が上手く合った

高橋「それは? アニメの人間ではないというのは?」
大河原「映像にそれほど興味がないということですよ。人が作った映像観るのは楽しいんだけど(笑)、普通だったらみんな監督やって自分で演出して作品作りたがるんだけど、僕はそういうの一切ないですからね。それよりも“物”を作って、今回もいろんな自分でデザインしたやつを商品化してるとか、そっちの方がよっぽどワクワク楽しいですからね」
高橋「僕が初めて大河原さんとお会いしたときから雰囲気はそういう雰囲気だったですよ。ようするに何か物を作ってるのがすごく楽しそうっていうね。コツコツ自分の部屋で自分の思ってる造形物を、手を動かして作っているのが楽しそうでしたよね」

大河原「この前、僕の出身校でアニメの学会があって呼ばれて行ったんですけどね、ゲストコメンテーターとして滝沢さんもみえてたんだけど、やっぱり滝沢さんなんてのは映像が好きだからあの大学に入って映像を学んで出てきてるから、未だに商業的なアニメじゃないCG映像やったり、ずっとそれを追っかけてるけど、僕はたまたま時期としてマーチャンダイジングを一番重要視するサンライズっていうプロダクションと“僕が好きな仕事”と“需要と供給”が丁度上手く合ったんでこれだけ長く続けられたんです。沼本さんも言ってたけど、“変形とか合体”とかパズルとしてはすごく好きだったんです。サンライズが求めているのもまさにそれだった・・‥。今みたいにサンライズさんが余裕ができてくるとマーチャンオンリーじゃない、映像でどうにかなっちゃう作り方というか‥、僕を必要とする度合いがだんだん薄くなってきてるんですね‥。僕個人としてはガンダムのおかげでいろんな方面の仕事ができる素地が、ある程度出来てきたんで、映像にしがみついてなくてもいいような状況が出来たんで、まあこの5年ぐらいというのはすごく気分的には贅沢ですね。また老後(笑)何か出来そうな準備は今のうちに出来てるという感じはしますけどね」

ロボットに興味が無いプロダクションと
ロボットに愛着もっているプロダクション

大河原「タツノコは、吉田竜夫さんはロボットには全然興味が無い人だったんですよ。“[ゴーダム]にロボット出てるじゃない”と言っても、あれも結局沼本さんに言われて仕方なく出したのが戦闘ロボじゃなく基地だったらしょうがないなあということで文芸部が折れたんですね。だから元々ロボットをやりたいっていうスタッフがほとんどいないプロダクションだったんです。[キャシャーン]っていうのはロボットは出てきているけど、あれは中村さんの完璧な個性だから、会社あげてロボット物っていうのはまず無いプロダクションだったですよね。サンライズっていうのは山浦さんと一番先にお付き合いして、山浦さんはロボットというのに対してすごく愛着もっている人だし好きなんですよね、多分。それとマーチャンダイジング的にも一番確実性があったというのでロボット物の作品以外が僕にくるっていうことはまず考えられない。10年ぐらいそういう時期がありましたね。もう根本的に作品造りについては違いますよね。スポンサーの取り方もまるっきり違いますからね。ガッチャマンは森永製菓さんですから玩具屋さんなんか一切関わってないですね。だからメカに関しては本当に自由にできるんですけど。そこに“ロボット入れろ”っていうふうになったのは結局玩具屋さんとお付き合いするようになったからですね」
高橋「サンライズも最初からロボットと言うんではなかったらしいんですが、商売になってからはそれを核に据えたということで。だからある意味では吉田さんなんかの作り手とは違う。サンライズ固有のものというかね。マーチャンダイジングってことに直結する。確かに、“当たるんだ”“商売になるんだ”って分かってからの熱意とかは他のプロダクションとはちょっと桁違いですよね」
大河原「結局、吉田竜夫さんも早く亡くなられたから。ずっと長生きしてれば作品を優先に考えて“ロボットが必要だったらロボット出しましょう”っていうスタンスの仕事が多分ずっと続いたんだろうと思うんですけどね。久里(一平)さんも元々絵描きですから、あんまりメカとかどうでもいいんですよね、“必要だったらじゃあ中村さんに頼もうか”“大河原に頼もうか”って、初めからロボット物で作品世界を構築しようなんてそういうのは一切ない人ですからね。タツノコで[マクロス]とか作っていても企画とかデザインその辺全部違うところで、制作だけタツノコって感じですよね」

発注する人の感性と近くないと良いものは上がらない
自分が良いと思っても相手は気に入らない‥。

高橋「サンライズとやってきているなかで山浦さんが一番付き合いが・・‥」
大河原「長かったですね」
高橋「後は、その次あたりになると?」
大河原「岸本さんとも何度もお話ししましたね。会社創った人とは交流はありますけどね。ただ仕事上いつも密着してやっているのは山浦さんですよね。その後になると井上さんとか・・‥」
高橋「高千穂さんもね、『サンライズは山浦さんですよ』って言い切っちゃうぐらいでね。僕も山浦さんですよ。売るんだって言った時のロボットを絶対外さない意志の強さとかね。それ以外はものすごくアバウトというかいい加減というか、あとは好きなことやって下さいみたいな、“こことこことここだけ押さえて下さい”っていう。他の人にないポイントの押さえ方を、他の人にない大らかさでってありますよね。そういうことだから僕なんかも自分が創るときにある部分をはっきり目線を据えることができたというのがありますけどね」 大河原「あの人は絵が描けないというのが一番良かったな」
高橋「そうでしょうね」
大河原「ヘタに描かれると影響されるんだけど(笑)」

高橋「注文出す人は絵描けるとか文章書けるとか具体的に何か作らない方がいいですね」
大河原「イメージだけしっかり持ってもらって。一番問題はね発注する人とデザインする人の感性っていうのが比較的近くないといつまで経っても良い物は上がらないし、自分が良いと思っても相手は気に入らない。まあそれがデザイナーにとって一番辛いことですよね」
高橋「僕は山浦さんと比べればまだ具体的に絵を描くとか文章書くっていうことをやるので、責められるんですよ、制作に。注文するのに早く答え出して的確な注文出して下さいよって。ところが具体的に描いちゃうとその巾になっちゃうんですよね。ホントは監督は何にも出さないでずっと我慢して悪者になってもスタッフが出すのを待って、自分のイメージを他の人の才能を入れて膨らますって言うのが僕の理想なんですけど、そこまで堪え性がないんですね。きっと堪え性がないという性格もあるんですけど、山浦さんを見てるとある意味では欲の‥‥(金銭欲じゃないですけど)、欲の深さ大きさが僕なんかより大きいですよ。小さいことには拘らないけど、ここだけは嫌がられても守らせるっていうようなところが他の人よりは感じますよね」
大河原「そういう意味では山浦さんとお付き合いした頃って山浦さん経営者ですから会社の方針というのがダイレクトに伝わってきたし、山浦さんというのは初期は全部当たってたんですよ、言うことが。僕より10才上ですから、僕から比べるとかなり大人ですし、まあこの人の言うこと聞いてれば間違いないかなという何か変な安心感があったんですよね」
高橋「そうそう。それと、こういうことやりたいって企画したときに山浦さんが“OK”って言ったら仕事になってたんですね(笑)。山浦さんがアハハ‥、“それはまたね”とか言うとダメなんだなって。ところが今サンライズの誰を口説けば仕事になるのかちょっと判らない」

高橋「あとこれからサンライズで期待する人とか期待できる人、スタジオはありますか? 目についたところで、もしくはこうした方がいいんじゃないかっていう‥‥」
大河原「ここんとこゲームの仕事がほとんどだったんでアニメーションの仕事やってなかったんですよね。今回もアニメーションやるつもりなくてスケジュール1年組んでたんですけども、たまたま9スタの仕事をやらなきゃならない状況になって。今度のガンダムの監督は福田さんだから感性はそう離れてないし、それほど何かもやもやした違和感って残らないで仕事ができるってあります。でも、段取りが悪かったんですよね。『こんなんでロボット物なんて作れるの』って設定制作に言ったんですよね。そしたら彼ら、『できます!』って。『今までのものに恥ないような作品はできます』って言い張ったんですよね。1話見たらそれなりにしっかりできてるんで、アニメーション好きで入ってきてる奴っていうのは頑張りゃできるんだな‥って。ノウハウの蓄積っていうのは少なからずあるんだな、流れてるんだなっていう‥」
高橋「さっき芸能って言葉がでましたけれども、アニメって芸能というには‥‥いやいや芸能界的意味合いにおいてですけど、中途半端なんですよね。だからサンライズの創業者とか成功した富野さんとかなんかもね、“うわーっ!とても勝てないや”ってぐらい見せてくれて、お金も独り占めして他の奴なんかにやらない。サンライズの他の人になんかには回さないよって感じでね、“欲しけりゃ自分で稼げよ”ってつっぱねるぐらいの方が多分影響としてはいい結果が出るんじゃないかと思うんですね」
大河原「我々も、ガンダムって“買い取り”でしょう。ホントに今考えると安い値段で売り渡しているんだけど、それでガンダムのおこぼれっていうので今まで貰ったのを全部計算すると相当の額になってることは確かなんですよね。(まあ独り占めしちゃう会社じゃないからちょこちょこ配分してくれる会社なんでね)総合的に考えれば潤ってはいると思うんですよね。それに対して仕事も相当入ってるしね」
高橋「作った人は潤ってもいいんですよね。次の連中が創作意欲燃やすっていうところに役だってないような気がするんですね」
大河原「あれだけ儲かるんだったら、何か違う作品の方に冒険的なことをやってもいいような気もするんだけどね。全部CGで作ってもいいと思うんだけど、何か新しいことやりたがらないね、あんまり」
高橋「そうですね。それは堅実なところを引き継いでるんですよね。山浦さんたちだってそう冒険的でないですからね」

大河原「かなりしっかり計算して作品作りしてた」
高橋「‥‥新しいもの作れるというのはどういうことなんだろうと思ったんですね。貧乏にしてハングリー精神を喚起させるか、無茶苦茶金使って冒険させるかどっちかだと思うんですよね。サンライズは無茶苦茶金使って冒険できる方じゃないから、新しいことを望むんなら貧乏にするのが一番いいね(笑)」
大河原「あと‥‥僕はすごく恵まれている。ヒット作にいつも絡んでいられたんですね。タツノコではいきなり[ガッチャマン]に絡んで“タイムボカンシリーズ”の[ヤッターマン]以降全部中村さんから貰っちゃった。[ガンダム]があって[ボトムズ]があると大体この4つあるとね、どこへ行っても話が通じるんですよ」
高橋「全部違う方向押さえてて」
大河原「“こいつはボトムズ興味ないな”っていうと、ヤッターマンの話すれば“ヤッターマン見てました”とかね。(笑)だからすごく作品に関しても恵まれている。スタッフに関しても恵まれてますよ。その根本にあるのは中村さんていう人がいた。惜しげなく自分が敷いたレールを僕にも敷いてくれた。それがすごく大きいんですけどね。だけどまあスタッフと作品に関してはものすごく恵まれてましたよね。ボトムズなんかはホントできないですよ。誰かが、“タカラからああいう作品を作るように言われたんですよね”って言ってたけど違いますもんね、あれは」
高橋「違いますね」
大河原「あれはサンライズ側からああいう作品作りたいからということで説得したんですよね」
高橋「確かに沼本さんの支援は受けましたけどね」
大河原「あれも不思議な作品で、いまだに濃い人は濃いしね」

 大河原氏のデザインの底に流れているメカの“気分”とでも言えばいいのであろうか、それが私は文句なく好きである。それより何より、氏と話していると何故かいつも安心する。この安心感は何だろうと思っていたのだが、今回ある部分解った気がした。それはインタビューの中にも氏の発言としてあった『我々の育ってきた時代って言ったら、“大人になったら一生懸命仕事する”っていうのは当たり前‥‥』この感覚なのではないだろうか。確かに私達の世代はそういわれて育った。たぶんそれは正しい事である。継承すべき当たり前の事である。その当たり前の心構えの中から、あんな非凡な仕事をし遂げるとところに大河原邦男という人物の凄味があると、今回分かった

 

【予告】

次回新年第2弾は、いよいよ富悠由悠季氏の登場です![キングゲイナー]の製作で多忙極める最中、「1時間だけだからね!」とリョースケさんの長話取材に先制パンチの釘を刺されながらもこの連載初の最短インタビューが敢行されたのです。でもよく喋ってます‥お二方とも‥。乞うご期待なのだ!

【リョウスケ脚注】

1つの社屋に各部署が全部あった
武蔵野の雑木林に囲まれてなかなか良い雰囲気の中にタツノコプロダクションのスタジオはありました。前庭には幹部スタッフの車が駐車されてあり、まだ自分の車など高値の花の時代、私も憧れの気持ちを抱いてスタジオの中に入ったのを思い出します。ま、それはさておいてスタジオ内に全工程が収まっている効用は計り知れないものがあります。初期の虫プロもそうでしたが一つの作品に関わる全ての人が集っているスタジオと言うのはある意味理想郷であります。これはたぶん他の巨大な産業ではありえない(自動車産業、製鉄、電気製品など等)幸せの形ではないでしょうか。でも、この幸せの形はそう長くは続きませんでした。70年代には大体外注システムが完成してアニメに従事する人の大半が自宅もしくは個人の仕事場での孤独な作業をもくもくと続ける事になりました。むろんそんな孤独な作業を好む人が多いのもまたアニメ界というところではありますが。?


渋江さん
フルネームを[渋江靖夫]氏。昔の仲間うち、私などは[しぶやん]と呼ぶ。その昔[バンパイヤ][ゲバゲバ90分]等を製作していた虫プロの[江古田スタジオ]を、サンライズ初代社長の岸本吉功氏と運営していた縁でサンライズの創業に参加。ガンダムやアニメ版のウルトラマンなどを手がける。すでにリタイアしているがこの連載のどこかでお話を伺おうと思っている


出渕裕氏
御存知特撮やアニメファンの間にカリスマ的人気を誇るデザイナーであります。もちろん氏のマルチな才能はデザイナーと言う枠の中に納まるものではありません。多々ある才能の中でも去年[ラーゼフォン]で監督デビューを飾ったのも記憶に新しいところであります。私はボトムズからお付き合いさせていただき、[機甲界ガリアン]のOVAでは本当に一方ならない御世話になりました。しかし、氏も業界では指折りの遅筆マンでその手の逸話には事欠きませんが、上がりを急かせに泊り込んでいる編集者に『これでも見て待っててよ』とビデオを渡し、編集者が気がついたらいつの間にか後ろでしっかり自分も見ていたなんてことは度々らしいです。氏についての評価では押井守氏の『マニアにフェロモンを発揮するんだよね』が耳に残っております。 


滝沢さん
フルネーム[滝沢敏文]氏。ボトムズでチーフ演出をしていただいた。ボトムズの映像構築は氏のセンスと努力に負う部分が多い。氏は映像に独特の拘りを持つ。かつて好きな監督を聞いた折[ブライアン・デ・パルマ]と答えた辺りに氏の趣味が窺えた。付き合いの始めは009の各話演出であったが、ダグラムのとき絵コンテを依頼してその仕上がりに著しい進化を見て驚嘆し、ボトムズでの参加をお願いした。業界には珍しいスーツにネクタイ、ソフト帽を被っての英国紳士然としたスタジオ入りは氏の真骨頂である。
 

 

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