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2022.02.10

クリエイターインタビュー 第9回  福田己津央<前編>

テレビ放送から30周年を迎えた『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』のアニバーサリーを記念して、監督を務めた福田己津央さんに話を伺った。前編では、サンライズ入社から演出時代の思い出、そして初監督作となった『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』のテレビシリーズ立ち上げについて振り返ってもらった。
 

――まずは、サンライズに入られたきっかけから教えてください。


福田 俺の先輩に芦田豊雄さんが作られたスタジオ・ライブという会社でアニメーターをやっている人がいたんです。その人が「制作として使える、絵コンテを読める奴は誰かいない?」とサンライズから探すように言われて、そこで紹介されたのがきっかけですね。一度、芦田さんのところに行って話をして、こっちがコンテを読めることがわかったから、サンライズに連絡してくれて。翌日に企画室に連れていかれて面接をしたら、その日からシナリオ打ちに出ることに(笑)。即日採用で、「明日も来れる?」って言われて、その日も打ち合わせが終わって帰れたのが終電間際だったという思い出がありますね。


――それが1979年ということですが、ちょうど『機動戦士ガンダム(以下、ガンダム)』をやっている頃ですよね。


福田 同じ建物の1階でやっていましたね。実は『ガンダム』の後番組として企画が動いてた『無敵ロボ トライダーG7(以下、トライダーG7)』の設定制作、設定進行という形で呼ばれたんです。当時、『トライダーG7』も第1話のコンテ作業に入っていて。企画室の飯塚正夫さんが『ガンダム』にも関わっていて忙しかったから、その手足になる若い人が欲しかったみたいで。だから、飯塚さんに面接されて採用されたという感じで。即採用ではあったけど、シナリオ打ちに参加させてその様子を見て、使い物になると思われたから合格となったみたい。


――最初の現場が『トライダーG7』だったわけですね。


福田 そうです。だから最初にお世話になった監督は、『トライダーG7』の監督を担当していた佐々木勝利さん。そこで1年くらい仕事をして、次の番組になる『最強ロボ ダイオージャ』の立ち上げくらいまで仕事をしていたんだけど、一度退職して実家に帰って別の仕事をしていました。その後数年経ってからまた『超力ロボ ガラット(以下、ガラット)』の設定製作で現場に復帰して。もう1回飯塚さんに呼んでもらった形で戻ったので、本格的な仕事はそこからだったといいう感じですね。


――当時、サンライズにはどのようなイメージを持っていましたか?


福田 変な会社だなと思っていましたね。とは言え、当時のアニメ会社はどこもあまり変わらない感じで、特別変わっていたという印象はないですね。むしろ、「この仕事は、いつまでやれるんだろう?」とすごく不安になる職業という感じで。そもそも、60歳までやれるのかなと。社会保障系の全然無い仕事だし、ギャラもアルバイトに毛が生えた程度。将来性もまったく感じられない仕事だったから。一生やる仕事ではないなという感じでしたね。


――アニメ業界では設定制作や制作進行で下積みをして、その後演出かプロデューサーのどちらかの方向に進むかということになると思いますが、演出を目指し始めたのはいつ頃からですか?


福田 『ガラット』の時には、「演出でいこうかな」って思っていましたね。その前の『トライダーG7』の頃からすでに演出系に行くつもりでいたので。次に『ダーティペア』で設定制作を担当してから、『機甲戦機ドラグナー(以下、ドラグナー)』で演出をやるようになった。当時は、アニメ業界が全体的に人手不足で、少人数で作品を回していくような感じだったし、描ける人が絵コンテを書いていく。若いとか歳をとっているとか関係がなかった。だから、演出に関してもちょっとできそうだと思われたら「お前がやれ」と言われる。そうして仕事をしていったという感じですね。


――『ガラット』の現場で、福田さんが「師匠」だと語られている、神田武幸さんと一緒に仕事をされるようになったわけですね。


福田 『ガラット』でお付き合いが始まり、その後サンライズが海外と合作で作った『センチュリオン』という作品で演出助手とクレジットされているけどほとんど演出みたいなことをして、「任せても大丈夫」と認められて『ドラグナー』で演出に入るようになりました。自分が監督になる前に、演出としてついた監督は、神田さんと『魔神英雄伝ワタル』の井内秀治さん、『勇者エクスカイザー』の谷田部勝義さんくらいしかいない。その中で、特に教えてもらったのは神田さんだった。とは言っても何か指導してもらった記憶はなくて、コンテを描いて、それを神田さんにチェックに出してOKをもらっていたという感じで、一緒に仕事しながらもの凄く勉強させてもらったという印象ですね。


――神田さんとのやり取りではどんなことを思い出しますか?


福田 神田さんはちょっと純朴な感じがする人で、イメージとしては『銀河漂流バイファム』の世界観がそのまま神田さんだなという感じがしますね。そういう意味では、『ドラグナー』はあまり神田さんのカラーにあっていなかった印象があります。神田さんはもうちょっとキャらクターに振った、キャラクターを生き生きと見せるのが好きな方なので。言われて覚えていることと言えば「テレビシリーズは、全部アップで撮れ」ということくらいからな。基本的にこっちから「こうしたいと思うんですが、どうですか?」と聞いても、「いいんじゃない」という言葉しか返ってこなかった。自分がいいと思ったことやらせてくれるというか、「ここは違うよ」というような否定の言葉は聞いたことがなかったですね。


――その後、『新世紀GPXサイバーフォーミュラ(以下、サイバーフォーミュラ)』で初監督を務めることになるわけですが、どのような経緯で作品に参加されたのでしょうか?


福田 当時プロデューサーだった吉井孝幸さんから、3本の作品のどれかで監督をしないかと提示されたんです、それが、『機甲警察メタルジャック』と勇者シリーズの最新作、そして『サイバーフォーミュラ』。吉井さんは「どれがやりたい?」と言いながらも、自分では自動車ものを俺にやらせようと思っていたみたいで。『サイバーフォーミュラ』は、滅茶苦茶固い布陣が敷かれていて、キャラクターデザイン原案がいのまたみつみ、メカデザインが河森正治で脚本は星山博之で、もう監督は誰でもいいという感じでした。サンライズは、演出でも作画でも新人が最初にやるときは手堅い人と組ませるという形でちゃんと保険をかけていたから、新人監督にもそうした手堅い布陣を組んでいたわけですね。
 

――そういう意味では、監督として関わる段階で、企画はある程度固まっていたということですね。


福田 そうですね。でも、サンライズの企画はいろいろと流動するので、例えば企画室から出てテレビ局まで話が通ったとしても、全く違うものになってしまうことがよくある。そうしたことを前提に、いくら内容を変えてもいいということで、最初はもうちょっとくだけた話だったのが、だんだんレース色が強くなっていったという流れですね。


――企画当初はもっと子供向けの色合いが濃かったとも聞きました。


福田 最初は、コックピット内でクルマが喋るのではなく、クルマ自体に目が付いていて喋るという感じで、今で言うとピクサーの『カーズ』みたいなものでしたね。ただ、当時はF1がブームになっていたというのもあって、企画もどんどんそちらにシフトしていった。それは当時の社長の山浦栄二さんの意向で、F1の要素が加わっていった感じですね


――その結果、丁寧なレース描写のされた、ちょっと固めの要素もある作品になったわけですね。


福田 でも、完成した第一話を観た時は、俺自身はすごく敗北感がありました。「これはダメだな」って、色んな意味で思いましたね。中でも俺が「しくじった」と思ったのは、サンライズではレースものをきちんと描ききれないということ。ノウハウが無く、レースものとして構築できないと判ったので、そこから「映像の見せ方はロボットものの作法で作っていこう」と。そういう形で方向修正をしていきました。


――乗っているのは自動車だけど、感覚としてはロボットもののバトルであるということですか?


福田 そうですね。それをやり始めた段階で、放送開始から10話は越えていたかな。でも、「ロボットものとして作る」という方向にシフトしたのは正解だった。レースは、みんな同じ方向に走っているから、ロボットものでいう「向かい合う」シーンが作れない。それをどう補うかということをしょっちゅう考えていましたね。それから、常に地面に接しているから上下の演出もできない。そういう枷がレースものにはあるから、結構大変でした。演出的に気を遣ったのは、派手さというか、画面の見栄え。それがものすごく大事で。地味な画面になるとみんな見てくれない。そこを何とかしないといけないというのも大きかったですね。


――自動車レースは、同じ所を何周もするわけですから、絵を動かして見せることが重要なアニメ的には、どうしても地味になってしまいがちですね。


福田 確かにそれはあって。だからレースシーンはいろいろと手を替え品を替えしていろいろやったけど、そこに全ての要素、いろんなロボットものに必要な要素というのがちゃんとあるんだなというのが判った感じでしたね。


――レースものとして見せるにあたってこだわった部分はありますか?


福田 順位画面って言うのかな? 「現在の1位はこのチームです」という途中経過をテレビ中継風に見せる部分。あそこは、いろいろと面倒でした。今だったら、デジタルなので簡単に文字を入れることができるけど、当時は専門のタイトル屋さんに発注しないといけない。さらに、順位表が映った時には間違いがあると大変なので、そこはかなり注意しました。実際に、それでリテイクが出たことが何度かありましたね。それから、ある時は実況が言っている順位と画面の順位が違っているのをフィルムが完成してから見つかったこともあった。レースものはそういう部分もかなり面倒ではありましたね。


――レースの勝負は長時間かけた結果出るものですから、アニメだとリアルタイムでは描くことができなくて、どうしてもダイジェストにしなければならないですからね。そうした段取りもバトルが中心のロボットものとは違いますよね。


福田 『サイバーフォーミュラ』は、ともかく大変なもののオンパレードですよ。スポンサーロゴとかマークとか、今だったらあまり気にならないだろうけど、レースものには欠かせないし、あんなもの仕上げさんは大変だったと思いますね。あんなものを手描きでやっていたわけですから。でも、そういう無茶なことをやっていたからこそ、今も残っているのかなと思っているんですよね。

<後編>に続く


福田己津央(ふくだみつお)
1960年10月28日生まれ、栃木県出身。アニメーション監督、演出、脚本家。
サンライズに入社し設定制作、演出助手を経て『機甲戦記ドラグナー』で演出デビュー。『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』で監督デビュー。『GEAR戦士電童』の総監督、『機動戦士ガンダムSEED
』『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の監督の他、『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』ではクリエイティブプロデューサーも務めている。


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