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- インタビュー
【第13回】リバイバル連載:サンライズ創業30周年企画「アトムの遺伝子 ガンダムの夢」
【予告】&【脚注】
【予告】
次回は、外側から見たサンライズ編‥。サンライズ独立当時を知る、宮原照夫(元[少年マガジン]編集長)さんと虫プロダクション創立時からサンライズの現在まで多くの作品に関わりを持つ野崎欣宏さんの登場です。乞うご期待!
【リョウスケ脚注】
川畑さん
フルネームを[川畑栄一]さんと言う。高橋が入社したときにはご病気で休んでいらした。だから川畑さん‥‥この頃は先輩たちはみんな“畑さん”もしくは“畑やん”と呼んでいた‥‥その畑さんにお会いしたのは入社後2、3ヶ月を経った時である。なんとなく味のある自家製のたくわんみたいな人だった。優しい人で、[悟空の大冒険]の演出時代1年間もサボって仕事をしない私を自宅に呼んで監督の杉井ギサブロー氏ともども親身に心配してくれたことを思い出す。どうにもこうにも人を突き放すと言うことが出来ない人で、手塚さんから虫プロの経営を引き継ぎ2代目社長となったのであるが、この優しさが裏目に出たことは間違いないところであろう。つまりはどんなに生産性のないスタッフでもリストラなんて死んでも出来ない人だった。私の結婚披露宴で杉井ギサブロー氏と共におかめとひょっとこに扮しパンツ一丁のちょっとエッチな裸踊りを披露してくれたのを思い出す。 フルネームを[川畑栄一]さんと言う。高橋が入社したときにはご病気で休んでいらした。だから川畑さん‥‥この頃は先輩たちはみんな“畑さん”もしくは“畑やん”と呼んでいた‥‥その畑さんにお会いしたのは入社後2、3ヶ月を経った時である。なんとなく味のある自家製のたくわんみたいな人だった。優しい人で、[悟空の大冒険]の演出時代1年間もサボって仕事をしない私を自宅に呼んで監督の杉井ギサブロー氏ともども親身に心配してくれたことを思い出す。どうにもこうにも人を突き放すと言うことが出来ない人で、手塚さんから虫プロの経営を引き継ぎ2代目社長となったのであるが、この優しさが裏目に出たことは間違いないところであろう。つまりはどんなに生産性のないスタッフでもリストラなんて死んでも出来ない人だった。私の結婚披露宴で杉井ギサブロー氏と共におかめとひょっとこに扮しパンツ一丁のちょっとエッチな裸踊りを披露してくれたのを思い出す。
佐々門さん
フルネームを[佐々門信芳]氏と言う。まあタフな伝説的アニメーターである。とにかく通常テレビシリーズの原画と言うのは1話につき4、5人の原画マンが必死こいて3週間ないし4週間で上げるものなのだが、それをスケジュール通りに1人でこなしてしまう。おまけに出来が良い。制作にとってこんな力強い原画マンもいない。それに温厚、スポーツマン、酒を飲んでも強くて乱れない。まあ、男の中の男と言えるでしょう。高橋と同じ所沢在住なので、結構な頻度で何気なく出会う。すると傍には必ず虫プロ時代に結婚した美人の奥さんがいる。これ100回会って100回とも居るんですよ! ホントなんだから! 本人に聞いても「うーん、大体一緒だね」とさらりとのたまう。つまり伝説的タフの源はここにあるのだろうと推察が出来る。良き家庭を守るため強くなれるというわけなのだろう。うらやましい。サンライズでは[無敵ロボ・トライダーG7][最強ロボ・ダイオージャ]などのキャラクターデザイン、その他作品の作画監督を務めるなどは数知れない。
金山さん
フルネームを[金山明博]さん。虫プロ時代から“走るアニメーター”として知られている。まだジョギングやウオーキングなんて言葉が日本にない頃から健康管理のため走っていました。だから高橋より少々上の世代ながら贅肉なんてさらさら無しのスマートさ、うらやましい。良ちゃんうらやましがってないで走れば良いのさ簡単だよって本人は言うけど、なかなか簡単じゃありません。[超電磁マシーン・ボルテスV][闘将ダイモス][未来ロボ・ダルタニアス]などの長浜忠夫監督の花の時代をサンライズのエース作画監督として共に築いた名アニメーターであります。アニメーターは身体が資本を後輩に身をもって示してくれました。
坂本さん
フルネームを[坂本雄作]さんと言う。元々は東映出身のアニメーターであるが、高橋が入社した頃は[坂本雄作][山本暎一][杉井儀三郎]の3氏がチーフディレクターで交互に次期作品の企画や監督をやっていた。これはあくまで高橋の印象であるが、お三方の中では坂本さんが一番繊細でナイーブな印象を受けた。だからかもしれないが企画の頓挫や作品の途中挫折などが多く、ゆえに氏の代表作と言うものが直ぐに浮かびづらい。が、虫プロを退社後に[スタジオ・ジャック]という会社を創設し、ここを経由したり仕事をしていた人たちが凄い。例を2、3あげると‥‥木下蓮三、芦田豊雄、布川ゆうじ、鈴木森繁、山本繁など等である。氏はアニメーター、演出というよりむしろプロデュサーとしての能力色合いが強かったのかもしれない。氏は自らが創設したスタジオ・ジャックはとうに退かれたが、スタジオ・ジャックは業務内容を美術背景専一に変え代々木に健在である。
神田武幸さん
私は、いや仲間内はみんな親しみを込めて[かんちゃん]と呼んでいたが、残念なことに7年前に亡くなってしまった。無類の酒好きでそれが結果的には寿命を縮めたのは間違いのないところだろう。『酒で死ぬのなら本望だ』が口癖であった。私とは虫プロ時代からの仲間で、共同監督をした[太陽の牙ダグラム]が懐かしい。代表作の[銀河漂流バイファム]で見せたあの優しい子供の目線を持つ独得の演出感覚が極めて貴重だと、このごろ特に感じる。バイファム放映当時あの富野由悠季が視聴者、特にターゲットと目される少年少女の賞賛を聞き、『嫉妬を覚える』と言ったことが私の耳に残っている。いずれにしても早すぎた死が悔しい。
山本暎一さん
私が虫プロに入社しての最初の仕事が山本さんの家にアトムの絵コンテの上がりを回収に行くことだった。あのころの山本さんは挫折しやすい坂本さんや我がままな杉井さん(ごめんなさい筆の奔りです)の投げ出した仕事の後始末を黙々とやっているという印象が強く残っている。これは新米だった私の偏見であろうが、とにかくそんなことだったように思う。後にその粘り強さは[ジャングル大帝]のプロデューサーという大仕事で遺憾なく発揮された。あの頃はジャングル班のスタッフこそが、えり抜き、エリート、一線級ということで、私などは寄せ集め二線級補欠軍団の[ワンダー3]班の駆け出し演出で、たまさかの折ジャングル班のスタジオを覘いたりたりするとその彼我の違いにビックリしたものである。スタジオの設備からしてジャングル班は運動が出来る広場やスタッフが仕事の合間にくつろげる娯楽室などが完備されていて、その部屋には気分を盛り上げるアフリカの資料やポスターなどが上手くレイアウトされていた。それに比べて我が班はお茶屋さんの倉庫の一室で、狭いよ暗いよ侘びしいよで、ガラクタと同居であった。……それはともかくとにかくあの頃の山本さんは当たらざるべき勢いで、その後[千夜一夜物語][クレオパトラ][哀しみのベラドンナ][ワンサくん][宇宙戦艦ヤマト]などなど大仕事を連発したのはよく知られるところである。
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