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2022.11.10

サンライズワールド クリエイターインタビュー 第12回
メカニックデザイナー 大河原邦男<前編>

サンライズ作品のキーパーソンとなったスタッフに関わった作品の思い出を伺うクリエイターインタビュー。第12回のゲストは、今年で画業50周年を迎える、メカニックデザイナーの大河原邦男さん。サンライズの前身となった創映社時代から作品に関わり、『機動戦士ガンダム』、『太陽の牙ダグラム』、『装甲騎兵ボトムズ』をはじめ多数の作品に関わってきた。前編では、サンライズとの初仕事から、メカデザインの仕事においてターニングポイントとなった『機動戦士ガンダム』までの流れについて語ってもらった。

――大河原さんがサンライズとお仕事をするきっかけはどのようなものだったのでしょうか?

大河原 私はタツノコプロの社員としてアニメの仕事に関わるようになったのですが、その頃に一緒に仕事をしていた制作担当の方が、タツノコからサンライズの前身となった創映社に転職していたんです。その方とは、私がタツノコを辞めた後もずっとお仕事をしていたのですが、その流れで創映社の企画部長の山浦栄二さんと会ってみないかといわれまして。その時は、軽い感じで山浦さんとお会いして、『ろぼっ子ビートン』という作品の内部図解の仕事を依頼されて、それが実質的なサンライズとの最初の仕事だと思いますね。
その内部図解とほぼ同時に、新作として準備が進められていた『無敵鋼人ダイターン3(以下、ダイターン3)』のデザインをお願いされました。その頃は、創映社が日本サンライズに社名変更するのに合わせて、玩具スポンサー2社と作品を作ろうという形で動き始めていた時期で。お仕事としては、一度デザイン作業まで入っていたのですが、制作が進む中でスポンサーの片方が倒産してしまいまして。それで、『ダイターン3』は一度ペンディングになってしまうんです。その結果、同時期に企画が進んでいた『無敵超人ザンボット3(以下、ザンボット3)』が優先されることになり、放送の順番は『ザンボット3』が先になって、当初日本サンライズの第1弾作品として準備していた『ダイターン3』はその翌年に放送ということになったのです。


――サンライズでは、その後も山浦さんとお仕事をされていたんですね。

大河原 そうですね。山浦さんとは完璧に密着してやっていましたね。スポンサーとの会議なども、当時は一緒に行っていました。サンライズさんには、スタジオぬえなどのメカデザイナーのラインもあったと思いますが、彼らは企画などに関わっていましたが、私の場合は便利屋的な感じでしたね。
メカのデザインだけでなく、玩具的な形状や機構を考えることもできて、さらに機構試作も作ることができて、一緒に行ってプレゼンでスポンサーに説明することもできる。そういうところが便利だったせいか、山浦さんがよく声をかけてくれて、いつも打ち合わせをやっていた感じですね。

当時は大変でしたよ。夜中に「ちょっと来てくれないか。いいアイデアが浮かんだんだ」って山浦さんからいきなり連絡があって。そこで、私の自宅からクルマで1時間くらいかかる西東京の山浦さんの自宅に行って、こたつに入りながら話をして、言われたアイデアをそこで絵で描いたりするということが何度もあって。そんな形で、最初の頃はずっと山浦さんと一緒に仕事をしていましたね。

――『ダイターン3』に関しては、大河原さんが機構試作も含めてデザインを担当されていたそうですね。

大河原 モックアップも全部作っていますね。肩の三角の部分が開いて頭に被さる機構が、自分の頭の中ではできるとわかっているのですが、実際に動かさないと実現可能かわからない。その機構を作ってみないと、スポンサーのクローバーさんにプレゼンできないので、自分で作りました。元々、どちらかと言うと、絵を描くよりも立体を作るのが好きだから、機構試作も、どうしても商品に近い状態まで作り込んじゃうんですよね。そうやって作ったものを実際に担当されていた玩具会社の方に見せたところ、すぐにOKが出ました。

――富野由悠季監督とのお仕事も『ダイターン3』が初めてですか?

大河原 富野さんはタツノコ時代に『新造人間キャシャーン』などで演出をやっていたので、多分、当時会っていたんですが、ちゃんとお会いして仕事をするのは初めてでした。ただ、メカに関する感性が私と富野さんでは全然違っていて。富野さんは、ちょっと変わった宇宙から来たようなメカ好きで、私の考えるものはメカメカしいものなんですよね。そこがかなり感性の違うところで。そうは言っても、『ダイターン3』の時は意見の違いでぶつかりあうことはなかったですね。

――富野さんからの意見でデザインが難航したこともあるんですか?

大河原 富野さんの言うことを聞きながらやっていると、仕事が進まなくなってしまうという問題がありますから(笑)。『ダイターン3』の頃は良かったんですが、『機動戦士ガンダム(以下、ガンダム)』のあたりになると、私が同時に3、4本の作品の作業を同時並行的にやっていたのです。それこそ、サンライズの『ガンダム』と『ザ☆ウルトラマン』、タツノコの『ゼンダマン』と『科学忍者隊ガッチャマンⅡ』の4本を同時にやっているという状況で。そうなると、こなすだけでも大変だから、富野さんと戦う時間がもったい無くて(笑)。

――1978年から79年頃ですね。言われてみると、当時は大河原さんのメカを毎日のように見ていた気がします。

大河原 それくらい大変でした。ペースとしては、2日に1作品の仕事をしないと間に合わないくらいで。当時、同時進行で仕事をして感じたのは、サンライズとタツノコのデザインの使い方の違いでしたね。タツノコだと私がフィニッシュした設定をそのまま使って劇中のメカを動かすのですが、サンライズは別の人がフィニッシュする。だから、私は最初のガンダムのフィニッシュはやっていないのですよね。

――ガンダムのデザインの設定画は安彦さんが描かれていますね。

大河原 『ガンダム』はデザインの流れがちょっと変わっていて。最初にスタジオぬえからいただいたアイデアを元に安彦さんがラフを描いたガンキャノンがあって、それは私がフィニッシュしているんです。一方、ガンキャノンは主人公メカっぽくないということで、私が『ダイターン3』からの延長線上のイメージで、侍風のデザインを提案したのですけれど、それを最終的には安彦(良和)さんがフィニッシュしている。そうしてデザインが決まる中で、サンライズから「メインメカは3体欲しい」と言われて、ガンタンクを描いたという流れなんですよね。
『ダイターン3』までは私が自分でフィニッシュまでやったのですけれど、『ガンダム』では安彦さんが入ってきて、システムが変わったんですよね。一方で、『ガンダム』では、中盤以降の新しいメカに関しては富野さんがラフを描いてきてくれて。それをデザインとして仕上げる形になっていきました。私が主導してデザインをしていったのは、ザク、グフ、ドムくらいまでで。その後にゲルググのあたりで富野さんが目覚めちゃって。ザクから派生した方向で考えると、私だとゲルググのような、あのちょっと変わった形状のメカのデザインは出せない。そういう意味では、『ガンダム』でバラエティに富んだモビルスーツのデザインを楽しめたのは、富野さんの提案のおかげですね。

――一方で、ザクは「量産型メカ」という敵メカの概念という意味では、ひとつの理想形というか、象徴的なものになりましたね。


大河原 その点はラッキーでしたね。ガンダムに関しては、商品化するから玩具的なギミックを入れなくてはならないというところで苦労していましたが、敵方はそういうものが無くて、デザインをしていて面白いんですよね。

――『ガンダム』の次に関わるのは、『無敵ロボ トライダーG7』や『最強ロボ ダイオージャ』ですね。

大河原 山浦さんは硬い作品をやったら、次は柔らかい作品とか、作品の傾向を変えることでマンネリ化させたくなかったのでしょうね。でも、そういう仕事をしていく中でも、あのころはやっぱりメカデザイナーは少ないのですよ。そして、私は失敗をしなかったのでいつも声をかけてもらえていたのです。

――お仕事をしていく中で、サンライズという会社も変わっていった感じはありましたか?

大河原 私が最初に山浦さんに会ったのは、アパートの一室でした。そこが企画室だと。畳の部屋にちゃぶ台が置いてあって、そこで山浦さんが戦記物の小説を読んでいたんです。それを、当時企画室にいた飯塚(正夫)さんがかいがいしく世話をしているという感じで。私がそれまで仕事をしていたタツノコプロは、ちゃんとした会社でしたからね。だから最初は「これはまずいところに来てしまったのかな」って思いましたね(笑)。

――他のクリエイターの方も、初期のサンライズは町工場みたいだという話をされますが……。

大河原 もっと貧乏な感じでしたね(笑)。打ち合わせは近くの喫茶店でしたし。もちろん、別にスタジオはあったんですが、山浦さんとはその企画室でしか会わないから。あの頃のサンライズを知る人ももう少なくなってしまいましたね。
それこそ、タツノコプロは、企画・脚本からデザイン、作画、美術、撮影まで全部社内でできるようになっていて、スタジオも持っていたくらい会社然としていた。もちろん、外部の会社に動画や背景をお願いすることはありましたが、でも自社内でできるように、ちゃんとした会社だったわけですから、差が大きくありましたね。

――サンライズは、基本的にはフリーランスの方が集まって仕事をされている感じでしたからね。

大河原 虫プロダクションから出て来た人たちが、有志で作った会社ですからね。だから、私がお付き合いし始めた頃は、本当に会社という感じではなくて。あの頃は、第1スタジオが自社の作品、第2スタジオが東映の下請けの仕事をしていて。私は第2スタジオとはあまりお付き合いがないけど、出渕(裕)さんなんかは第2スタジオでやられメカのデザインなんかを描いていたのですよね。
今のメカデザイナーさんはいろいろ制約があって大変だけど、あの頃は何も無かったから面白かった。コンセプトからいろいろと関わらせてもらうこともあったし、「メカとはどうすべきか」みたいなものは何も無かったから。参考にするものもなくて、あるとしたらアメリカのイラストレーターが描いたものからヒントを得るという程度で。真似をする材料が無いのがラッキーだったんだよね。そこでオリジナリティを出すことができるわけだから。
当時のサンライズは貧乏だから、作品に登場するロボットが商品になって、ロイヤリティが入らないと、いくら視聴率が良くても失敗作になってしまう。視聴率が悪くても商品が売れるというのが大事なので。それを山浦さんと一緒にやっていたということなんですよ。

――大河原さんは『ダイターン3』から関わっているわけですが、やはり『ガンダム』は大当たりしたという印象はあったのでしょうか?

大河原 スポンサーのクローバーさんは大変でね。儲からなかったから。でも、当時山浦さんはクローバーの人に「プラモにしたら売れるから」って説得したんですよ。でも断られてしまって。1年後にバンダイさんがプラモデルを商品化したいと言ってきて、大ヒットするわけですから。それこそ、クローバーさんは玩具会社だから、子どもが遊ぶための安全性というのがありまして。尖ったデザインとかできないんすよ。子どもがケガをしちゃうから。ただ、プラモデルになるとそういう制約が無くなるので、どんなデザインにすることもできるようになって。ただ、そこで行きすぎると立体としての魅力がどんどん無くなってしまうという問題もあるんですけどね。最近の3DCGのような、あちこちが尖って、「これでもか」ってほど細かいところを作ることができて、動かすことができるようになってしまうと、昔からやっているデザイナーとしては怖くて仕方ないですが。
でも、そういう方向にロボットアニメも、玩具業界も変わったきっかけは、間違いなく『ガンダム』でしょうね。


<後編>へ続く

大河原邦男(おおかわらくにお)
1947年12月26日生まれ。東京都出身。メカニックデザイナー。
東京造形大学を卒業後、アパレルメーカーを経てタツノコプロダクションに入社。『科学忍者隊ガッチャマン』でデビュー。その後、中村光毅とともに「デザインオフィスメカマン」を設立。1978年にフリーになる。
サンライズ作品では『無敵鋼人ダイターン3』、『機動戦士ガンダム』、『太陽の牙ダグラム』、『装甲騎兵ボトムズ』、『銀河漂流バイファム』、「勇者シリーズ」などがある。