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2023.04.10

サンライズワールド クリエイターインタビュー第16回
メカニックデザイナー 河森正治<前編>

サンライズ作品のキーパーソンとなったスタッフ陣に関わった作品の思い出を伺うクリエイターインタビュー。第16回のゲストは、河森正治さん。『超時空要塞マクロス』シリーズをはじめ、数多くの作品で原作・監督・脚本・メカニックデザイナーとマルチに活躍する河森さんは、サンライズ作品でも多くのメカニックデザインを担当。前編ではサンライズとのこれまでの関わりと長期間にわたりマシンデザインとして関わってきた『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』シリーズへの関わりについて話を伺った。

――河森さんがサンライズという会社に興味を持たれたのはいつ頃でしょうか?

河森 中学を卒業した春休みに友だちが「スタジオぬえ(以下、ぬえ)」という企画チームがあることを見つけてきて、そこに見学に行ったのが業界に踏み出す最初の関わりでした。当時からぬえがサンライズさんの作品にたくさん関わっていたので、そこからサンライズさんという会社にもすごく関心を持っていきました。僕自身、『勇者ライディーン』や『超電磁ロボ コン・バトラーV』などは高校生の頃によく見ていて。そんな流れで、正式にデビューする前に、ぬえのメンバーとして『闘将ダイモス』のゲストメカをノンクレジットで担当したのがお仕事として関わった最初になりますね。その他にも、最終話近くで敵の基地に侵入するコンセプトみたいなものもやらせてもらったような記憶があります。

――その後に正式にデビューした後では、79年に放送された『ザ・ウルトラマン』でデザインに関わられていますね。

河森 『ザ・ウルトラマン』は、前半のメカデザインを大河原邦男さんが担当されていたので、そこから引き継いで後半のメカのデザインを担当しました。当時はすでにぬえに出入りしていたということもあって、その頃に企画が進んでいた『機動戦士ガンダム(以下、ガンダム)』もかなり初期から知っていて。漏れ聞こえる話を聞きながら、すごく放送を楽しみにしていました。実際に放送が始まると、ガンダムのファンクラブである「ガンサイト」を友人たちと立ち上げて、そこで劇中の描写をもとに広げた設定を考えて同人誌を作ったりしていました。それが後々に富野由悠季さんに気に入っていただいて、そこで考えた後付けの設定を公式設定の中に持ち込んでもらえたんです。一方で、『ガンダム』のシナリオにぬえに所属していた松崎健一さんが参加されていたので、松崎さん経由で地球連邦軍側が反射鏡を用いたソーラ・レイを使うという話を聞いたので、「じゃあ、ジオンは閉鎖型コロニーがあるからコロニー・レーザーを使ったらどうですか?」と提案したら、それを採用してもらいました。だから、正式なスタッフではないけど、外部から少し『ガンダム』には関わっていた感じです。

――その後、サンライズ作品でスタッフとしてクレジットされたのは、1983年公開の『クラッシャージョウ』ですね。


河森 『クラッシャージョウ』に関わる前に、『アステロイドワン』という実現しなかった富野さんとの企画がひとつ動いていました。『アステロイドワン』は、富野さんが『ガンダム』を終えて、自分が『超時空要塞マクロス』を作る前というタイミングに企画が進んでいたんですが、最終的にはまとまらなかった感じです。そういう意味では、その後にしっかり作品として名前が残る仕事をさせてもらったのは『クラッシャージョウ』になりますね。

――サンライズではスタジオに入って仕事をされたことはあるんですか?

河森 スタジオに入ったのは、『クラッシャージョウ』の時に安彦良和さんの九月社だけですね。あの時は、所沢の方で安彦さんの隣に座って設定画を描くという恐怖の体験をしました(笑)。安彦さんが怖いのではなくて、安彦さんの手の速さが凄くて怖かった。そのスピードはまさに「恐ろしものを見てしまった」と思うレベルで。一緒にスタジオにいたみんなが驚愕していましたからね。本当に人間業じゃないスピードですよ。普通じゃあり得ない。手の早い人が集まっている中で、桁外れの速さですからね。そういう意味では、一緒に仕事ができたというのは貴重な体験でした。本当に恐ろしかったですね(笑)

――その後は、ちょっと時間が空いて1989年公開の特撮映画『ガンヘッド』で関わる形でしょうか?

河森 そうですね。この頃にもひとつ『パラレルロード』という新しい企画をサンライズさんでやっていました。こちらは、絵が動かないパイロットフィルムを作っただけで、やはり作品としてまとまらずに終わってしまいましたが。

の後に『ガンヘッド』なわけですが、この作品は企画のかなり初期の段階から関わらせてもらって。サンライズさんなのにアニメではない作品のスタッフになることができたのは貴重ですね。よく考えると、それってものすごく少ない体験になるわけですから。

――そして、本題となる『新世紀GPXサイバーフォーミュラ(以下、サイバーフォーミュラ)』に関わるという流れですが、その前に河森さんから見たサンライズというアニメーション制作会社としての印象を教えてください。

河森 変わったことや新しいことをやってくれる会社というイメージがありますね。本当に単なる一般向けではなく、一歩突っ込んだ作品を作ってくれるスタジオという感覚があります。そういう意味では、すごく尖った作品を見ることができて面白かった。ファン目線もしっかり持っているところもありますし。あと、やはり富野さんの印象が強いです。当時、4クールの作品を連続であんなに作られていて。作品が終わって、休まずに次が始まるって、それを10年近く連続でやり続けるなんて、冷静に考えたらおかしいですよ。今なんて、1クールの作品を作るのに2年とかかかっているんですから。しかも、原作ものならまだしも、オリジナル作品をあれだけ連発しているというのは、もの凄いパワーですよね。当時だって、オリジナル作品をガンガン作っている会社自体もほとんど無かったですから。そこはすごく魅力だったと思います。自分も関わった作品はほとんどオリジナルしかやっていないんですが、オリジナル作品を作るのが好きなのはサンライズさんを見て育ったというのがすごく大きいと思います。

――関わっていく中で影響を受けたクリエイターはいらっしゃいますか?

河森 やっぱり、自分だとファンの時からプロになる過程を踏まえて、富野さんの印象がすごく強いですね。逆に言うと、富野さんがやった演出的な手法は、自分の作品では使わない方針でやるようにしています。

――富野さんと関わりがありはしたものの、一緒に作品を作ることができなかったわけですが、やはり影響が大きい方だったわけですね。

河森 残念なことに、一緒にひとつの作品を作れていないんですよね。でも、先ほども話したように、実現しなかった企画の時にはやり取りがありましたし、イベントの会場でお会いするということもありました。あとは、作品をたくさん見ているので、そこからの影響が大きいですね。

――実際にやり取りをした際の富野さんの印象を教えてください。

河森 こういう言い方をしてしまうと悪いんですが、80年代当時の富野さんのインタビューを雑誌の記事なんかで読んだりすると、難しいことを言っていてよくわからないような語り方をされているように感じるところがあったんですが、実際にご本人とお話するすごくわかりやすい。その場で、すごくたくさんのエクスキューズを語ってくれるんです。でも、インタビューではそのエクスキューズを取ってしまうので、なんだかわからなくなってしまっていたんだろうなと。それに気付いた時には、自分ではインタビューなどを受ける際には気をつけようと思いましたね(笑)。富野さんのことは、すごく尊敬しているんですが、ある種の反面教師的なところもありますね。一方で、やはり富野さんの演出論なんかはすごくヒントになっていて。でも、そのまま真似しないというのは前提になっている。真似をするとすぐに『ガンダム』っぽくなってしまうんですよね。なのでそこを外すように学んだというところもあります。

――やはり、影響力は絶大だということなんですね。

河森 そうなんですよ。演出が独特なのでそれに引っ張られやすいですし、さらに富野さん自身が量産可能なコンテの作り方をされているので。そこをちょっとでも手間をかけずにいい部分を使おうとすると映像的に似てしまう。それが厄介ですよね。だから、意地でも外すようにしています。ただ、自分の監督作品の中で、他の演出の人がやって似てしまうところは、仕方がないので許してくださいってところはあります。それくらい影響力はあるということですね。

――80年代の後半は一時期サンライズから離れていたわけですが、戻ってきてみた時の印象の違いはありましたか?

河森 すごく変わったという印象でもなかったですね。主に関わっていたのは90年代くらいまでですが、極端に変化した印象はないです。それこそ、初期の頃は小さいスタジオという感じだったのが、90年代にはだんだん大きくなって、スタジオの数もすごく増えていって、全体が把握できないくらいになった感じはありましたね。

――91年には『サイバーフォーミュラ』と同時期に『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』にも参加されていくという流れですね。

河森 そうですね。でも、『サイバーフォーミュラ』は関わっている期間が長くて。わりと企画初期の、ずっと子ども向けの作品として作るところからデザイナーとしての関わりはスタートしていて。それが、いろんな状況をへて企画が変更されていく過程も知っているんですよね。

――放送枠が『魔神英雄伝ワタル』と同じ流れとなると、やはり企画としては対象年齢が子ども向けで検討されますよね。

河森 それこそ、『チキチキマシン猛レース』のようなライトなレースものという発注がスタートにあって。自分はその頃から参加していたんです。それで、企画が詰められる中でだんだん変わって、よりリアルなレースものになるくらいのタイミングで監督となる福田己津央さんが参加されたと記憶しています。

――河森さんと言えば、『マクロス』の印象が強いので、飛行機が好きというイメージがありますが、自動車のデザインに関してはどのように思われていたのでしょうか?

河森 元々、クルマが大好きだったんです。この世界に入る前はカーデザイナーになりたかったくらいで。でも、中学校時代の友だちの原田則彦という人物がいるんですが、彼の方が車のデザインが上手かったんです。実際に、今はイタリアのカロッツェリア、ザガートでチーフデザイナーをやっているくらいですから。そういう意味では、あっちの世界に行かなくて良かった。彼とは、スーパーカーブームが来る前に、海外のクルマを扱うカーディーラーのメンテナンス工場が横浜にあって、そこでレストアをしているクルマを一緒に見に行ったりしていました。そこは、後にスーパーカーの聖地と呼ばれるようなところになるんですが。店の方も中学生が来るなんて珍しいから結構相手をしてくれて。展示してあるカウンタックに乗せてもらったりしてました。そこは、自分が住んでいた家から自転車行ける距離だったので、本当にしょっちゅう通っていろんなものを見ることができたのは、後に影響していますね。

――そういう意味では、『サイバーフォーミュラ』でクルマのデザインをできるという話は嬉しかったということですね。

河森 「やったー!」って感じですよね。いっぱい自動車のデザインが描けるってことで、嬉しかったです。だから、仕事として凄く楽しかったという記憶しかないんですよね。

<後編>に続く

河森正治(かわもりしょうじ)
1962年2月20日生まれ。富山県出身。アニメーション監督、演出、脚本、メカニックデザイナー、ビジョンクリエイター。2025年大阪・関西万博テーマ事業プロデュサー。
『闘将ダイモス』ゲストメカデザインでデビュー。サンライズ作品では『クラッシャージョウ』や『機動戦士ガンダム0083 STARDAST MRMORY』、『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』にデザイナーとして参加、『天空のエスカフローネ』の原作、シリーズ構成を担当している。
代表作に『マクロス』シリーズ、『アクエリオン』シリーズがある。


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