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2017.03.02

メゾン・ド・アームズ バシレイオン【第8回】

前回のあらすじ
バトルステーションモードが解除された部屋で、眠れぬまま真世は天井を見つめていた。頭から離れない昨夜のこと。静香の姿、その声。食料の備蓄も切れたことで、真世は再び外の世界に挑む決意を固めた! ⇒ 第7回へ

「しくじった……」

 静香はスーパーの売り場裏手にある総菜コーナー用の調理場で、用意された豚ロース肉をすべてトンカツにしてしまったのに気づき、思わず手を滑らせ油の中に菜箸を落とし、それまで揚げてしまいそうになった。本来なら用意した肉はジューシー生姜焼きと本場西京味噌漬け焼きの仕込み用にも振り分けなければならなかったのに。
 結局昨日の夜は、あの騒動の後、すべての品だしをやり終え、応援をお願いしきれなかった残りの店舗に急ぎ商品を届け精一杯頭を下げ、配送センターに戻って顛末書を上げると、中身を飲み干したコップを逆さにしてやっと滴る水滴のごとく僅かに残された力を振り絞って全力疾走したにも関わらず、あと一歩のところで終電のテールランプを見送り、徒歩で数時間をかけ、もはや静香の家族しか入居していない、取り壊されるのを待つだけといった佇まいのアパートの一室にようやく帰宅した時には、ゆうに深夜3時を回っていた。両親は当然の如く既に寝息を立てていた。静香は、いくら修理を頼んでも時折湯に冷水が混じる気まぐれなシャワーもそこそこに、資料文献や研究資材という名のガラクタまがいに占領されたなか、ほんの少し残るスペースに、二人と川の字になって敷かれている布団へと急ぎ入った。疲れ切っていたのになかなか寝つけなかった。
 あの巨人は何者なんだろう、なぜあのコンビニを狙ったんだろう。そして、あの人。フレッシュマートの店長に「ひきこもり」と宣告され、慌て逃げるように去って行った彼。
 ひきこもり……静香は記憶の遠くから何やら苦くも懐かしい匂いが起ち上がり、それが鼻の奥をくすぐるのを感じていた。そう、彼も言っていた、前に自分と出会った事があるような気がすると。
 ぱんっと油がはぜ、「熱っ」と静香は我に返った。気付けば再びぼんやりと手が止まっていた。引き上げている途中だったトンカツの最後の一つが、揚げ油の中できつね色をとっくに過ぎ、もはや黒いたわしと化して浮かんでいる。慌てて救出し、トレーで山を築いているトンカツの頂上に乗せると、静香は小さく息を吐いた。
 クスクスと笑う声がした。離れた調理場の一角で中年パート女性数名が群れている。中心にいるパートリーダーが、静香の視線に気づく。

「ごめんね。豚ロース、全部揚げちゃ駄目なんじゃないかなーって声かけてあげようかとも思ったんだけど、平さんにだけ主任から指示が出てるんだと思って」その口元が含みを持って厭らしく笑む。「私達の知らない、特別な……」

 引き立て役の取り巻き達が、パートリーダーの表情に一斉に随従する。言わんとしていることは単純だ。総菜コーナーと精肉担当を兼ねている中年男性主任が特殊な異性趣味の持ち主で、10歳の容姿のままで成長が止まってしまった静香に並々ならぬ興味を持っており、何かと便宜を図ろうとするのだけれどそれが面白くない。加えてそのパートリーダーは密かにその主任に想いを寄せている。よくある話だった。
 相手にしなければ別段、実害はない。むしろ彼女達の方から距離を取ってくれるのだから面倒な人付き合いも必要なく、かえって好都合だった。それより問題は、目の前にうずたかく積み上げられた熱々のトンカツだ。

「ありゃりゃ随分揚げちゃったね」件の主任が、ボールペンを片手でクルクルと器用に回しながら現れた。「こりゃこのままだと、かなりロスが出るんじゃないかな」
「申し訳ありません」まるで小学校の給食係にも見える静香は、かぶっていた衛生頭巾を取ると深く頭を下げた。「考え事をしてしまいまして」
「静香君もいろいろと大変みたいだからね。ただ、さすがにこれは少し時給から引かせて貰わないと、かなぁ〜」

 静香は持っている頭巾をグッと握りしめた。パートリーダーの視線が「いい気味だ」と薄くあざける。

「でもまぁ」主任は優男を気取って肩をすくめた。「君も悪気があった訳じゃないんだろ?」

 その手がクルクルと回していたポールペンを床に落とした。
 静香は嫌な予感がした。

「わざとじゃないんだし、ここは上司である私が——」主任がボールペンを拾い上げようと屈む。

「全部買いとってあげよう」

 取り巻きを従えているパートリーダーが「主任!?」と眉間を寄せる。そんな彼女達からは見えない作業台の影で、屈んでいる主任の手が、静香の尻を味わうように撫で弄んだ、案の定。

「いえ、結構です……」必死に払おうとするが、いやいやしぶとい。
「これも上司の仕事だからねぇ」
「結構ですから!」

 静香は身体を突き抜けた悪寒に反射的に強く身体を引いた。拍子に彼女の肘が、テンプラ用に準備してあった小麦粉入りの大きなステンレスのボールにヒットし、中身をぶちまけながらひっくり返ったそれを、主任が頭から全身にかぶった。床で転がるボールが落ち着くまで数秒かかった。

「……そうか」主任の声が、かわいさ余ってなんとやらとトーンを低くする。「それじゃしょうがないね……時給から少しと思ったんだが、やっぱりケジメもあるから、廃棄が出た分は平君、君に全部買い取って貰うしかないかな」
「!」

 トンカツ84枚の補填費といえば、現在の平家におけるほぼ4ヶ月分の食費に匹敵する。静香の頭がカッと熱くなった。元はと言えば、精肉の仕入れも担当しているあんたの発注ミスが原因で、消費期限ギリギリの豚ロースがこんなに発生して、それをロスにしない為に総菜に加工してやってるんだろうが(ロースをロスに、などど駄洒落を思いついた自分にももはや腹が立つ)! こっちは全部で30種類も総菜を作らなきゃならないんだ、豚肉ばっかりにかまけてられないんだよ! 静香はエプロンを剥ぎ取り、それを中年ロリコン豚野郎の鼻面に叩きつけ、そのふたつの穴にねじ込んでやろうとして――ハッと我に返った。
 生きねば。 
 こんな特異体質の自分を雇ってくれる店などそうそうないのだ。

「わかりました……売れ残った分は、買い取らせて頂きます」
「それとクリーニング代もお願いしたいな。このネクタイ、小学生の娘から貰った大切な誕生日プレゼントなんだ」
「……はい」

 パートリーダーが、胸がすいたとばかりにあからさまに鼻で笑い、取り巻き達が随従する。
 主任が当てつけがましく全身をはたいた。小麦粉が煙のように辺りに舞って、静香は思わず小さく咳き込んだ。

* * *

 夜と昼、続けざまに8畳半の世界の外に出てみて、真世は、昨日は気づかなかった重大な事実を思い知った。太陽は凶器だ。こうして清々しい晴天の下で全身に陽の光を浴びると、自分が場違いな場所にしゃしゃり出たよそ者だという事をあらためて痛感させられる。
 昨晩同様、建設途中で捨て置かれている変電施設から表に出た真世は、やはり集っている野次馬や陸自部隊越しに、遠くに見えるバシレイオンを眺めた。夜空の中、照明に浮かび上がっていた座位の姿とは違って、微かにスモッグの掛かった青空に今日は直立しているその姿は、背景となっている帝都のビルの林の中に、異質や違和感というより斬新さとして、ひとつの風景に溶け込んでいた。
 振り返れば、昨日破壊しようとしたフレッシュマートが、まるで何事もなかったかの様子で営業している。警察か何かだろうか、店舗前の駐車場に停車した黒塗りから、お堅そうなスーツ姿が数名降車し、店に入っていく。ひょっとしたら昨晩起こした騒ぎと関係あるのかも知れないが、知ったこっちゃないし、店に近づくつもりも毛頭ない。それより真世は、そのコンビニに次いで近くにあるスーパーマーケットに急ぎ、食料を調達し、一分一秒でも早く自分の8畳半の世界に戻りたかった。

 スーパーには出入り口が二つあり、真世が入ったのはどうやら出口として利用されるのを想定したドアの様だった。もうすぐお昼時と言う事もあって、店はちょうど混み始めたところらしく、吐き出される人の数もなかなかに多い。退店客の激流に決死の覚悟で抗いつつ、無我夢中で店内に突入した真世は、とにかく辺りに食べ物を探し、そばに人だかりを見つけ、そこが総菜コーナーであるのを知った。
 エステラが戻ってくるまで何日分の糧食が必要になるか判らない、まずは保存の事を第一に考えねばならないだろう――普通なら。しかし、いまそこにいるのは、心胆寒がらしめる魔物の巣くう恐ろしく禍々しき異世界に、一人放り出されプルプルと震える迷えるかよわき子羊だ。

 

 トンカツの売れ具合が気が気でない静香は、調理し終えたイカとアスパラのXO醤炒めの量り売り用の大皿を陳列するため、売り場へと出たついでに、急遽自分でこしらえた『助けると思って僕を食べてブー』との矛盾全開の吹き出しが添えられた、独特の個性をはなつ豚の絵のポップが掲げられている、トンカツのみで満たされた揚げ物コーナーの様子を、チラとのぞいた。お昼時間が過ぎると総菜が一斉に3割引となる『奥さまルンルンタイム』がスタートする。ある意味本戦場ともいえるそのサービス時間までに三分の一でも売れていれば、あるいは懐の痛手も最小限で済むかも知れない。微かな希望を胸にしていた静香は、コーナーの異様な光景に、思わずあんぐりと口を開いた。

「売り……切れ……? まだルンルンタイム、始まってもないのに?」

 彼女の耳に、揚げ物コーナーの商品を棚の端から端まで大人買いした珍しい客の話題が聞こえてきた。
 ふと見ればレジ奥から、溢れんばかりにトンカツが入ったレジ袋を両手いっぱいに抱えた、見覚えのある人影が必死に去って行く。

「……昨日会った、あの……ひきこもりの人……!」

 客の中に紛れ消えていく彼の背中を思わず追おうとした静香に、調理場から様子を見に来たパートリーダーが「次、白身魚フライの卵とじ、急いで!」と悔しげに声を掛けた。

著者:ジョージ クープマン

キャライラスト:中村嘉宏

メカイラスト:鈴木雅久

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