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2017.03.16

メゾン・ド・アームズ バシレイオン【第10回】

前回のあらすじ
コンビニの事務所で、草永は今日も世界支配をたくらむ邪悪な組織への妄想をたぎらせていた。そこに政府機関の課長を名乗る男、大和田が現れた。一方、大量のトンカツを確保した真世だったが、トンカツソースを買い忘れたことに気付く! ⇒ 第9回へ

 派手にぶつかり転げた割に怪我らしい怪我はなかった。真世がクッションになったお陰で静香はほとんど無傷だし、下敷きになった真世にしても、あちこち打ちつけた肘や膝が若干痛むのと、アスファルトの地面に手や腕をついた際に擦り傷を数カ所こさえた程度だ。それでも静香は、その傷が化膿でもしたら大変だと、いきなり飛び出しぶつかった事を必死に謝り急ぎ立ち去ろうとする真世を無理矢理に引き留め、近くにあった公園へと手を引き連れて行った。

「……お昼にトンカツ食べようと思ったんだけど、ソースがないとボク、食べられなくて、子供の頃から、それで、買いに出なくちゃいけなくなって……あ、これからだともう、お昼っていうより、夜ごはんの方が近くなっちゃうかもだけど……って言うか、ご、ごめん、そんなのどうでもいい話だよね……」

 しどろもどろ必死に弁明する真世の手や腕の擦り傷を、水飲み場で一つ一つ丁寧にすすぐと、静香はハンカチを出し、血の滲むそれらをそっと柔らかく押さえた。年季が入り生地も薄くなってはいたが、大切に使っているのだろう、見るからに清潔なハンカチだ。

「い、いいよ! だって、血が……」

 慌てて身を引こうとした真世を、静香は「ほら、そこのベンチに」と、強く促した。

「放っておいて後で病院にでも行くことになったら、治療代馬鹿らしいでしょ」

 きっぱりとした口調に鼻つらを圧され、水飲み場そばのベンチに腰を下ろすと、静香が身を寄せるように横に座った。「あのお兄ちゃん、ちっちゃいお姉ちゃんに叱られてる」近くの砂場で揶揄する幼児を母親が慌て抱き上げ遠のく。

 赤面し身を小さくする真世の隣で静香は、気にも留めない様子で、いつも持ち歩いている消毒薬や救急絆創膏をトートバッグから取り出すと、真世の傷に応急処置を施しはじめた。
 昨晩フレッシュマートの前で出くわした時は、店から漏れる明かりや街灯が薄明るく照らす中だったが、こうして照る陽の下で見る彼女は、肌の白さやきめ細やかさ、柔らかな髪の艶から自身の擦り傷を真摯に見据える長い睫の下の、つぶらに澄んだ瞳の深さまでが鮮明で、そんな容赦なく可憐で完璧な少女を前に、真世はドキドキすると同時に、なんだか息が詰まってしまいそうな気がした。ずっとこうして貰っていたい、でも、今すぐにでも走って逃げ出したい。胸の真ん中からだろうか、胃の底の方からだろうか、何やらいたたまれない気持ちが、わだかまりが、沸き上がってくる。

「ホントに……ご、ごめん!」思わず声がうわずって大声になり、真世は、傷ついた腕を静香に預けたまま、身をいっそう小さくした。「昨日、横断歩道、飛び出して、キミのトラックにはねられそうになったばっかなのに……」
「さっきあなたが飛び出してこなかったら、今度は私がはねられてる番だった」

 言うと、静香は口もとを小さくほころばせた。それまで戸惑いに泳いでいた真世の視線がふと、彼女の頬に浮かぶあどけないえくぼを見つけた。真世はしばらく目の前の天使の表情に釘付けとなった、そして……「そうか」と心の中で呟き、ずっと感じていたわだかまりについて、ようやく腑に落ちた。自分には、彼女に親切にして貰う、資格なんてないんだ。

「……情けない奴だって……思うよね?」
「情けない? なにが?」

 問い返す静香の口調はそっけないが、角は立っていない。

「だって……」真世は、ずっと目を逸らしてきた事実をあの男、草永から、静香がいる前で、歯に衣着せず突きつけられた昨日の夜のその瞬間を思い返し、鉛を飲み込んだ様に一瞬、喉の奥を詰まらせた。

「聞いたよね? フレッシュマートの前で、あの人から……ボクが、ひきこもりだって……」
「ええ」
「だったら……思うだろ? たかだかトンカツソースひとつ買いに部屋から出ただけで、心臓バクバク、あたまパニくって、赤信号だろうと混雑する歩道だろうとお構いなしに飛び出してさ……こんな買い物くらいで狼狽えたりしないだろ、普通の奴なら……」
「普通?」

 最後の傷の消毒を終え、救急絆創膏を貼ろうとしていた静香は一瞬、何やら寂しげな上目遣いを真世に向けた。真世が、置き場所を探し泳いでいた目を「?」と訝しげに留めると、彼女は再び視線を手元に戻し、そして、続けた。

「自分の世界から飛び出すのは、誰にだって、とっても怖い事だと思う。それぞれの世界の広さには違いがあるのかも知れないけど、必要な勇気はきっと同じじゃないかな。それに――」

 すべての救急絆創膏を貼り終えると、静香は粘着面から剥がした保護紙片を集め、

「たまたま持つ世界が広いだけで、ただその中に安住している人だって大勢いる。でもあなたは、住む世界はちょっぴり狭かったかもしれないけど、それでも、そこから飛び出そうとした、勇気を奮って」

 集めた紙片をトートバックにしまうと、黒目が大きく咲くつぶらなその瞳を真っ直ぐに真世に向けた。

「情けなくなんか全然ない……とっても凄い」

 曇りない鏡の如く青空を映す静香の目に、心からの微笑みが浮かぶ。真世はまるで一瞬吸い込まれそうになって――ふと、彼女の目線に先程、なにやら寂しげな雲が映り込んだのを思い返した。
 次の瞬間、真世は思い出していた。昨晩、草永が静香に向かって放った言葉を、それは確か「10歳で身体の成長止まったとか、気持ち悪いんですけど」

「昨日の夜は、ありがとう」

 静香も、同じ場面を思い浮かべていた。

「……え?」
「ごめんなさい、そういえばまだ言ってなかったから。私がフレッシュマートの店長に酷いこと言われた時……」
「……ああ!」真世は咄嗟に、自分があの男の肩に掴みかかった件だと察した「あれは……なんていうか……」
「ひょっとしたら、あなたにはそんなつもりなかったのかも知れないけど、それでも、嬉しかった」

 真世は足の先から体の芯、顔、耳、頭のてっぺんまでが、体の中から一気にカッと火照るのを感じた。恥ずかしさに赤面する時の感覚にも似ているが、何かが違う。これはきっと……そう、充実感だ。エステラ以外から感謝の言葉を貰うのなんてどれだけぶりだろうか、新たに足を踏み入れた世界から住まう事を認められ、心が活性化し始めたのだ。
 次の瞬間、真世はベンチに座ったまま、前のめりに彼女へと身を乗り出していた。

「あれって本当のこと?」
「?」と圧され、静香が身を引く。
「あの人が言ってた、10歳で成長が止まったって」

 途端、彼女の表情の色が鈍く曇った。それは先程、彼女の瞳に映った雲の色。
 真世もハッとなった。
 静香が無表情を戻し、視線を落とす。
 真世は暫く固まっていたのち、自分が浮かれ調子に乗ってしまった事に気付いて己に大きく失望し、乗り出していた体をゆっくり戻した。

「ご、ごめん……」

 言って、直後にまた後悔した。それがふさわしい言葉なのかどうかにも思い至らず、繕うようにただ謝ってしまう自分に自己嫌悪して、真世は大きくうなだれた。
 いたたまれない時間が流れた。
 静香はしばらく無表情に地面を見つめていたが、ふと自身に向かって「うん」と微かに呟き小さく頷いた。自分の為に勇気を奮おうとしてくれた彼には、聞く権利がある。彼女は数回まばたきする間で心を決めると、視線をあげ、穏やかに真世を見つめた。

「10歳の時に、成長を止められてしまったの、この体」

 ポソリと口を開いた。
 驚きと違和感が、うなだれていた真世の顔を持ち上げた。止まってしまった、ではなく『止められて』しまった? 病気か何かに、という意味だろうか、それとも言葉通り『誰か』に? とするなら、誰がそんな事を? なぜ? 矢継ぎ早にこみ上げて来る疑問を懸命に押し留め、真世は続く言葉を待った。

「止めたのは、父と母」

 目を丸くして息を呑む真世に、静香は、親しげに「どこに住んでるの?」と問うた。

「この辺りのお店に買い物に来るって事は、近くなんだよね?」
「歩くと少し距離あるけど、でも、近いっていったら近いかも」
「そっか……このへんに住んでる人なら、大概は知ってる話……だったりして」

 真世は「そうなんだ……」と小さく唖然となった。ひょっとすると家政婦のエステラは知っていたのかも知れないが、近所の話題は何だかなまなましく思えて、彼女との間でも一番に避けていたのだ。思わずスミマセンとばかりに肩をすくめ、首を屈める。

「……ずっと、筋金入りのひきこもり、やってたもので……」

 まるで戯けて見える彼の姿に、静香は思わずクスと微笑みを溢すと、自分も「納得」と戯けた風に告げ、

「『平・アルケミー・ラボ』……って、聞いたこと、ない?」
「アルケミー・ラボ……錬金術の研究所?」

 何だかうっすら聞いた事があるような……小首を捻り記憶の中を探る真世に、静香は、自分の恥ずかしい部分をこっそり開いて見せる様な、伏し目がちな声で、

「みんな、『幽霊研究所』って呼んでるけど……」
「ゆう……れい……?」
「両親が設立した研究所」
「両親……?」
「私、その研究所の娘」

 キミも!? 思わずそう言おうとしてベンチから腰を浮かせた真世は、慌ててその言葉をこらえた。自分が露島研究所の身内である事を――昨晩、愚かにもバシレイオンを使ってフレッシュマートを破壊しようとした事を、彼女に悟られたくなかった、知られたくなかった、それが恥ずかしかった。
 真世は中腰の姿勢のまま、空気椅子状態で固まってしまい、それを静香は刹那、不思議そうに見ていたが、

「知らなくって当然、ちっちゃくて、みすぼらしい所帯だから」

 と、ベンチに座ったまま体を捻り、遠くに目をやった。
 視線の先ではバシレイオンが天に向かって屹立し、その偉容を真世の両親の研究所が威風堂々の台座となって支えている。
 まるでお伽噺の城を望むように見つめていた静香の目が、諦めに自嘲した。

「あの露島研究所とは、雲泥の差」
「あ……」
「ん?」
「う、ううん……」慌ててあやふやとごまかす「なんの研究を?」
「『河原の小石をダイヤモンドに変える研究』、『お風呂の残り湯から原油を精製する方法』、『笑い声発電』、最近没頭してるのは『かけるとプリンが本物の海胆うにに変わる醤油の発明』」

 なるほど、流石は錬金術研究所。

「笑っていいよ」

 真世が慌ててかぶりを振る。
 代わりに言った静香の方がうふふと薄く笑った。

「当然、成功した研究なんてほとんどなくて、全然お金にもならなくって。それでも父と母はいつも、次こそはきっと成功するって、そうすれば絶対に大金持ちになれるって。そんないつになるかわからないような先の話より、明日の朝昼晩のご飯の方が、1ヶ月溜めた電気代と水道代、止まりかけのガス代をどうするかの方がずっと大事なのに。それでも二人とも次は必ずって、子供みたいに目をキラキラさせて、大丈夫、何とかなるって……」

 静香の瞳の鏡に、再び愚鈍な雲が映った。

「何とかしてるのは私なんだけどね」
「え?」真世は、まさかと思いつつ、「キミが家族を養ってるの?」

 うなずく代わりに静香は、浮かべた笑みにやれやれと疲労を滲ませた。

「こんな奇妙奇天烈な私、雇ってくれる所なんてそうそうないから、正直大変」
「そう……なんだ……」

 だから、そんなに小さな身体でコンビニの配送トラックのドライバーなんて……決して自分のせいではないが、それでも真世は、なんだか申し訳なさげに視線を逸らしかけて、「そういえば」と気づいた。

「さっき、成功した研究が『ほとんど』ない、って」

 視線を戻すと、静香も真っ直ぐ真世を見つめていた。
 思わず目を逸らそうとして、真世は、彼女が浮かべている醒めた笑みに、次の瞬間、先の言葉を思い出していた。「自分は成長を止められてしまった、自分の父と母に」

「……もしかして?」
「当たり……私がその数少ない実験成功事例」

 言葉を失い暫し静香を見つめたままでいた真世は、ふと、自分の目線が何やら『物』を見るそれに変化した気がした。慌て目を逸らそうとして――そして、はたと気づいた。
 そうだ、いま自分が逸らそうとした視線は、周りの人達がボクから逸らしている視線と、きっと同じだ。
 真世はそれの正体を知り、愕然とし、心を苦くし、それでも理解できたからこそ、普通でなくなった彼女に、もう一度視線を戻した。決して簡単な事ではなかったけれど、それでも真世は、静香を見つめ直した。人として。
 静香は真世を見つめたままだった、その目の鏡に、真世が映り込む。

「遺伝子の過剰発現とか内分泌ホルモンとか、細胞間シグナル伝達とかタンパク質リン酸化反応とか、自分自身の事なのに、さっぱりわからないけれど……」彼女は小さく鼻で笑むと、一瞬地面に目を落とし、そして公園前の道を向いた。「とにかく父と母は、私を10歳の時の容姿のままにしておくことに成功した」

 通り過ぎる車を、見るともなしに眺めている。

「自分たちが一番可愛いと思った時のまま置いておきたかったんだって。その姿でずっといられれば、きっと私も幸せになれるに違いないって、そう思ったんだって」

 真世も道に視線を向けた。自動運転ナビの抜け道に指定されているらしい、道幅の割りに車の通りが多い。

「なら、せめてこの研究を売ってお金にすればって言ったらね……」

 言葉がとぎれた。真世が向く。静香はほんの少しだけ嬉しそうに目を閉じていた。

「これは売り物じゃないんだって。私にだけの、プレゼントなんだって」
「プレゼント……」

 真世は、バシレイオンに視線をやった。

「ま、周りからヘンな目で見られるだけのこんな研究成果なんて、誰も買わないか」静香はベンチに座ったまま「あーあ」とお尻の後ろに両手をつくと、身を預けて空を仰ぎ見上げた。「数少ない成功のお陰で働き口に困るなんて、なんだか皮肉」
「ほんと」真世はポソリと言った。「親ってなに考えてるかわかんないよね」
「……うん」
「でもきっと、それもこれも全部、ボク達のためを思って……なんだよね」

 そんな両親とももう……これまでは会わないのが当たり前だった。そしてこれからは、会えないのが当たり前になるんだ。
 視線を感じた、静香が意外そうにまじまじと真世を見ている。「えっと……」と戸惑うと、

「私、ひきこもりの人って普通みんな、両親のこと、もっと汚く罵るもんだって思ってた」

 言って静香は「あっ」と口許を押さえた。

「さっきは自分から『普通とか関係ない、ひとはそれぞれ』なんて偉そうにお説教しといた癖に……だね」失敗失敗とバツ悪そうに肩をすくめる。

 清純さに人懐っこい愛嬌が加わって、いっそう増した彼女の魅力に、真世はしばらく見とれ、そして、思わず吹きだした。静香も声を上げて笑った。そんな二人を、夕暮れ色の滲みはじめた青空からもちもちとした入道雲が見下ろしている。

「それじゃ」静香はベンチから立ち上がった。「私、行かなきゃならないから」

 自転車をスーパーの駐輪場に戻してパートリーダーに謝ろう。ラブホテルの清掃の仕事も、ちゃんと遅刻を謝罪して訳を話せばクビにならずにすむかも知れない。思いつつ傍らに置いてあったトートバックを掴んだ彼女は「そうだ」と思い出した。「?」となっている真世に、バックの中から何やらを取り出し渡す。

「よかったら」

 受け取れば、それはトンカツソース。

「トンカツ、あなたが大人買いしてくれなかったら、私、売れ残りを全部買い取らなきゃならなかったの。お昼の時間が始まる前の休憩時間に、自分で使おうと思って、パート割引で買っておいたんだけど……」と、戯けた敬礼を付け加える。「実は私も、ソースがないとトンカツ食べられない派デス」

 何のことだろうと聞いていた真世は「ひょっとして」とようやく理解し、そして驚き、

「コンビニの配送トラックだけじゃなくって、あのスーパーでも働いてるの?」
「それ以外にもいろいろと、ね。私の場合、なんやかやと安く買い叩かれがちだから、数こなさないと。それでも、雇って貰える所があるだけ感謝、かな」

 真世は「そんな小さな体で……」と言いかけ飲み込み、手に持つソースを見つめた。そんな彼に静香は、申し訳なさげに、

「ごめんなさい、こんなお礼しかできなくて」
「とんでもないよ! とっても助かる!」
「よかった……それじゃ……」

 名残惜しげに去りかけて、静香は「そうだ」と再び振り返った。
「言ってたよね。前に会ったことがあるんじゃないかって?」

 そう、その声、確かに聞いたことがある。記憶を辿る真世に、静香は告げた。

「私は平静香」
「ボ、ボクは――」

 言いかけ、暫しためらって、

「露島、露島真世」
「露島……って、あの、露島研究所の!?」

 ぽかんと開けた口を忘れた静香は次の瞬間、顔がカッと真っ赤になるのを感じた。

「そんなお金持ちのあなたに、私、トンカツソースなんて」
「トンカツソースはすごく助かるんだって!」
「じゃ……もしかしたら」と、何やら気づいた様子で静香は、遠くに立つバシレイオンの方を向いた。
「昨日の夜、あのロボットがフレッシュマートを壊そうとしたのって……」

 一瞬の間があった。

「……あなたが?」

 真世は小さく頷いた。

「あのロボットは……バシレイオンは、父さんと母さんが、ボクを護るために造ってくれたんだ」

 真世もバシレイオンを見た。そして「けれど……」と、何やらひとことをつけ足した

著者:ジョージ クープマン

キャライラスト:中村嘉宏

メカイラスト:鈴木雅久

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