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2017.03.23

メゾン・ド・アームズ バシレイオン【第11回】

前回のあらすじ
静香に介抱されながら真世は聞いた。23歳の年齢と釣り合わない、その容姿の秘密を……。彼女は科学者である両親のゆがんだ愛情により、一番可愛い姿、10歳の容姿のまま成長が止められていたのだ! ⇒ 第10回へ

「うわっ! 寒っ!」

 8畳半は冷蔵庫のごとく冷えていた。

「おかえり! お! 頑張ったじゃん露島!」

 真世がトンカツソースを手に部屋に戻ってきたのをモニタリングしたバシレイオンAIは、まるで「よしよし」と彼の頭を撫でるかの調子で声を掛けた。それでも「で、『アレ』は買わなかったの?」とイジるのを忘れない。

「なんでこんなに寒いの? エアコンの故障?」
「はぁ? 何それ? 故障なんてするわけないし。露島が机の上に出しっぱなしにして行くから冷やしといてあげたんじゃん、トンカツ」

 

 真世のトンカツソースゲットの旅は、すんなりとは始まらなかった。
 まずは、エステラが戻って来るまで、とにかくソースなしで乗り切れないものか試してみようと、プレーン状態のトンカツを三口ほど囓ったところで、その味気なくモソモソした塊を相手に食欲が頓挫した。
 次いで、ソースの代用となる物はないかと思案を巡らせ、「そういえば」と、部屋に醤油とマヨネーズを常備しておいたのを思い出した。机の上の、囓りかけのトンカツが乗る紙皿の横に、探し持ってきたそれらを並べる。

「トンカツに醤油かける人って、結構いるんだよねー」

 スタンドアロンの癖に何処から聞いたのか、知ったかぶるバシレイオンの声に促され、真世はロングセラーデザインでおなじみの某有名メーカー醤油瓶を手に取ると、それを眉根を寄せて睨みつけた。

「みたいだけど、ボクは、ちょっと……」

 真世は前々から、醤油の澄んだ味がトンカツの油に弾かれるようで、両者の組み合わせに賛同できなかった。ではマヨネーズはどうか。こちらに関しても、トンカツの衣の油に豚肉本来の脂、それにマヨネーズの油分が加わり、連想しただけでも胸が焼けそうだ。

「塩は? 塩いいじゃん、なんだか通っぽい感じするし」
「塩なんて部屋にないよ」
「なんで?」
「なんでって……」
「醤油もマヨもあったのに」
「だって、塩って、あとづけ調味料じゃないだろ?」
「あとづけ……何?」
「だから、塩とか砂糖とかって、料理するときに使うものでしょ? 部屋には要らないから」
「家政婦さんが作った料理、食べてみて、ちょっと塩っ気足りないなーとか、もう少し甘さ足したいなーとか、そう思った時はどうすんの?」

 まるでキョトンと音がしそうに真世は目を丸くした。

「あり得ないよそんなの。だって、エステラはボクの味覚嗜好、完璧に把握してるから」

 刹那の沈黙があって、

「ツッコミどころはまぁこの際、置いとくとして……だったらいっそのこと部屋の中にあるもの全部、片っ端から組み合わせてみれば? 新しいトンカツの次元が扉を開くかもよ」

 探し回って見つけたのは、のりたまふりかけ、ごはんに乗せるのりの佃煮、バター、いちごジャム、マーマレード、ピーナッツバター、チョコシロップ、メープルシロップ。それら様々な『あとづけ調味料』達とトンカツとの出会いを目の当たりにした結果、真世はついに辿り着いた、トンカツソースは偉大であるという再認識に。
 覚悟を決めるしかなかった。
 脳裏に浮かぶフレッシュマート店長の蔑みの視線を必死ににじり消し、トンカツを大人買いする自分にシャワーのごとく浴びせられた奇異の人目を懸命に振り払うと、真世は、屈辱のコンビニや恥辱のスーパーマーケット以外で、最も近くにありソースが入手しやすそうな店の場所と、可能な限り人に出会わずにその店まで辿り着けそうなルートを検索し、幾度ものためらいを踏んだ後、ようやく8畳半と外界とを繋ぐチューブリフトの出入り口となっているクローゼットの前に立ち、まるで海の底のコインを素潜りで掴み取ってこようとするかのごとく大きく息を吸い込むと、息も止めんばかりの勢いで部屋から飛び出し、結果、試行錯誤に使った数枚のトンカツを冷蔵庫にしまい忘れてしまったのだった。

「その数枚が、生死の境目になったかもよ。ほんと、露島ってしょうがないね」

 バシレイオンAIが、いつもの通り、やれやれの気持ちを声にする。

「ま、だからあたしがいるんだけど」

 どことなく嬉しそうに聞こえた。

「なにがあろうと、あたしが絶対に護るけど」

 エアコンから吹き出していた冷気が温風に変わる。真世は慌てて机の上に出しっぱなしだったトンカツを冷蔵庫にしまおうとして、静香から貰ったトンカツソースを握りしめたままなのに気づいた。
 ふと彼女の表情が浮かんだ。その小さな体に両親から背負わされた理不尽な境遇。逃げ出すという選択肢を与えられず、自らも選ばず、ただ受け入れるしかない諦めの笑み。

「あんたの父親と母親があたしを造った理由、判る気がする。だってあたしがいないと、きっと全然ダメダメじゃん露島は」

 8畳半が次第にぬるま湯の温度に温まり、真世を包み込んでいく。

「世話焼けて大変」
「……ほんとうだね」

 冗談めかして言うバシレイオンAIの言葉を、真世は噛みしめる。
 なにやら気持ちが歩みはじめた。

「だから……」

 ためらいの時間が長いと、もう二度と言い出せなくなるかもしれない。歩み出したその勢いのまま、彼は思い切って告げた。

「ボク、この8畳半から出るよ」
「………………え?」

 何を言われたのか、バシレイオンAIは一瞬理解できなかった。
 決意が逡巡の堰を切り、溢れ出した真世の思いがいっきに加速し始める。

「心地いい温もりに浸かりっぱなしで、いつの間にか、ここがぬるま湯の中だってコト、忘れてしまってた。ひきこもり始めたばっかりの頃は、情けないとか、悔しいとか、このままじゃいけないとか、たくさんの……いろんな色の思いの糸がぐちゃぐちゃに絡まった毛玉みたいなのが、喉の奥の底の……」胸を拳で強く示す。「この辺りにつかえて、イガイガしてたのに……なのに、そんな事も、いつの間にか……!」

 それは突然のオーバーフロー。

「でも、これからずっと、って……よろしくお願いしますって、言ったじゃん、露島……」

 バシレイオンAIは、プロセッサ中で何かが、カチリと小さく音をたてるのを聞いた気がした。

「無理することないよ露島! 今のままでいいと思う、だってちゃんと手に入れられたじゃんトンカツソースも、十分頑張ってる!」
「このソースをくれた人が、気づかせてくれたんだ」
「でも……だって、あたし……」

 そんなつもりで真世を自分の外へと促した訳じゃない。世間が彼にとってどれほど冷たく厳しいかを痛感させるため、この8畳半こそが、自分こそが真世にとって唯一の居場所であると思い知って貰うため。

「ありがとう、少しの間だったけど、バシレイオン……ボク、街に出る。働く、強くなる!」

 真世は、トンカツソースを持つ手にグッと想いを込めた。

「履歴書買ってくるよ!」
「真世!」

 どんな困難が待ち受けているかは判らない。容易くは乗り越えられないだろう、ひょっとしたらもう一度、この8畳半の殻に戻り閉じこもってしまうかもしれない。それでも真世は駆け出したかった。世界とは自分の手の届く範囲じゃない、その外にこそ広がっているんだ。
 晴れ晴れとした気持ちで真世がクローゼットの扉を開けるのと、その人を乗せたチューブリフトが到着したのは同時だった。

「アオリータ ジェゲ! ただいま、マヨ!」

 長身で細身で豊満な少女が、ブロンドのツインテールをフワと大きく揺らしながら、到着したチューブリフトから飛び出し、いきなり真世に抱きついた。

「エステラ!?」

 バシレイオンAIが驚きモニターする中、ハリウッド女優も真っ青に整った小顔から、宝石のような碧眼が天真爛漫にうふっと真世を見つめる。

「お土産はハイ! ポルボロン!」

* * *

 はふぅ、と思わず真世はだらしなく息を漏らしてしまった。こうして彼女に耳掻きをして貰うのは、思春期が訪れ、気恥ずかしさと青臭い見栄とが入り混じり遠慮するようになって以来、何年ぶりだろうか。彼女の膝枕には温もりと安らぎと安堵があった。暖かな、陽だまりのような居場所だった。

「ごめんなさい……もっと早く戻ってこられればよかったのだけれど……」

 戸惑う真世を、その手は優しく、それでいて力強く引き寄せると、彼の頭をメイド服のスカートからのぞく、ふくよかで柔らかくそれでいて弾力を持った、タイツ履きの太腿へと誘ったのだ。抗うことが出来なかった。

「本当に残念……」

 彼女が傍らに耳掻きを置いた。
 その手が優しくそっと真世の頭を撫でる。

「……旦那様と奥様……」

 真世は鼻の奥がツンとするのを感じた。必死に堅く目をつぶったが、それでも涙は溢れて出てきた。拭おうとした手を彼女がそっと押さえた。真世は枕にしていた太腿と太腿との間に、うずめる様に顔をぎゅっと押しつけた。甘くてとてもいい匂いがした。
 名をエステラ・デ・ロス・ディオスと言った。スペインはアンダルシア生まれの母親と、彼女がアメリカでの留学中に知り合った海兵隊員との、一夜の関係によってこの世に生を授かったという。その後スペインに戻った母は、ひとり身を粉にしてエステラを育てるも、不治の病に倒れてしまう。
 エステラは、せめて母が逝く前にひと目でも二人を引き合わせようと父親の行方を探し、所在がこの日本の米軍駐留基地である事を突き止めると、ようやく片道分の飛行機代を稼ぎ、遙か6000マイルの距離を越え、彼を訪ねてこの地を踏んだ。ところが彼女の父は既に中東にて特務作戦中に殉職しており、さらにその事実を知った翌日、祖国の母親も息を引き取ってしまった。
 母国から遠く離れた異国で、彼女はひとりぼっちになってしまった。
 夕暮れを過ぎたこの国の、この街には、アンダルシアとは比べものにならないくらい大勢の人々が、漆黒の髪と瞳を携え俯き加減に肩を落とし行き交っていた。大都会に華やかに咲き誇り始めたネオンは、どこか寂しく見える。彼女の前を何人もの人々が通り過ぎた。それをただ、黙って眺めた。
 ふと気づけば足元に、野良猫が、身をこすりつけまとわりついていた。

「これから、どうすればいいと思う……?」

 抱き上げれば、答える代わりにキョトンと見つめる。エステラはホッとした。アンダルシアでも極東の島国でも、猫のかわいさはおんなじだ。 
 彼女は思わず微笑んだ――その表情に、真世の両親は一目惚れしたのだという。
 ちょうどその頃、真世の両親は、バシレイオンの建造準備に本格的に取りかかりはじめたところで、自分たちに代わって愛する息子の面倒を見てくれる人物を探さねばと考えていた。帝都庁にて、中央卸売場移転予定地取得に関する一連の手続きを済ませた二人は、その帰りの道すがら、繁華街の一角にたたずみ野良猫に微笑みを向けるエステラを見つけ、思わず声を掛け、彼女の事情を聞き「もし良かったら」と、スカウトしたのだった。
 たとえ笑顔が気に入ったからといって、身元もわからない異国の少女に、大切な一人息子の世話を託そうとする真世の両親も両親だが、それを一も二もなく了承したエステラも大概だ。もちろん、とにかく母国までの旅費を稼ぎたかったのかも知れないし、真世の両親の説得が熱烈だったからかも知れない。けれど――

「引き受けた一番の理由は、初めて会った時のマヨがぷくぷくころころまん丸で、とってもキュートだったから」

 懐かしく思い返しながら真世の髪の毛を梳くエステラに、彼女の太腿に顔を埋めていた真世は、今更ようやく照れ臭くなった様子で慌て体を起こすと、まだ頬で濡れている涙のあとを手のひらでぬぐった。

「ほんと、今とはまったく別人だよね」

 アーカイヴにある小学校高学年頃の真世の姿と、モニタリングしている8畳半の彼とをコンペアしつつ、バシレイオンが驚く。

「今のひょろい露島からは想像できないんですけど」
「中学の時の……」真世は一瞬言い淀み、「マラソン大会の事があったからね、それからエステラがバッチリ食事管理をしてくれたおかげ」

 エステラは、うふとひとつ笑んで、

「もちろん、今のマヨも素敵ですヨ。ね、バシレイオンさん」
「素敵かどうかはともかく、あんたは知ってたんだ、あたしの事」
「だったら教えてくれてれば良かったのに、エステラ」

 まるで子供じみた風にふて腐れる真世に、エステラは、彼に膝枕をしていた正座の姿勢のまま困り顔を向けた。

「申し訳ありません……ただ……」

 その表情が哀悼の痛みに小さく歪む。

「バシレイオンさんが世にその姿を現す時、それは……旦那様と奥様が天に召された証を意味します。それを思うと、バシレイオンさんの存在をマヨに伝えるのが、なんだか……」

 声が消え入り、

「……大切な人を失うのは……とても、辛いことだから……だから、まさか……旦那様と……奥様が……」

 両の手で顔を覆った。

「…………ごめん……」

 真世がポツリと洩らす。
 エステラはかぶりを振った。

「にしても、露島の父親と母親は、あんたの――エステラのこと、本当に気に入ってたんだね」

 エステラは顔を覆っていた手を膝に置き俯くと、心辛そうに肩を縮こませ身を小さくした。代わって真世が「?」と問う。

「あたしが、A3フィールドディフェンスを越えて自分の中に入ってくる物質を感知できないなんて、よっぽど上位クラスのパーミッション設定されてるって事だし」
「そりゃそうだよ。だってエステラは、ボクの育ての親みたいなもんなんだから」
「あら……」と、俯いていたエステラは懸命に笑みをあげた。「せめて育ての姉といって下さいナ」

 真世も笑みをつくった。
 バシレイオンAIもプロセッサの中で二人に続いた。
 真世の父も母も、湿った事が大嫌いだった。
 三人は追悼の笑顔を向け合った。
 では、とエステラが立ち上がった。メイド服のスカートがひるがえってひろがり、それをポンポンとはたいて押さえる。彼女の甘い香りが部屋中に広がった。

「夕食の準備をしてきますね」
「食料だったら」バシレイオンが促した「ほら、露島」
「あ、うん」

 首を傾げるエステラに、真世は冷蔵庫と冷凍庫の中身を披露した。

「トンカツが……イッパイ!?」
「暫くはこれで過ごせると思うんだけど」

 エステラがあんぐりと口を開けている。

「あ、栄養バランスとか保存の事とか考えて買ってこなきゃってのは判ってたんだけど……」
「子供のお使いでも、も少しマシかもね」

 バシレイオンAIの言葉に、真世は言われてもしょうがないと肩を落とした。思わずエステラがぷっと噴き出す。

「やっぱり笑うよね」

「いいえ」と彼女は首を横に振った。愛おしそうに真世を見据え、

「頑張りましたネ」

 まるで母が子を愛でる笑みで目尻を下げる。

「…………本当に?」
「ええ、エステラはとっても感動しました。立派になりましたネ、マヨ」
「いやいやいや」バシレイオンが思わず、「23にもなって前後不覚でトンカツ大人買いする男に向かって言うセリフじゃないでしょ」

 そんなツッコミも耳に入らなかった。真世の心臓が嬉しそうに踊りだし、高揚の弾みを打ちはじめる。一刻も早く彼女に伝えたくなった。

「ボク――!」この部屋から外の世界へ飛び出す、そう告げようとした、その言葉を、

「でも」

 と、エステラが満面の笑顔で遮った。

「私が戻って来たからにはもう、なにひとつ不自由なんてさせませんからネ」
「ううん、エステラ、ボクさ……」
「マヨは今まで通り、なんの心配もせず、安心してお過ごし下さいませ」

 その笑みは、ただ真っ直ぐ真世を見つめるだけだ。
 なのに彼は、それ以上言葉を継ぐ事が出来なかった。

「なにも悩まず、なにも思い煩うことなく、やすらかに、心穏やかに、この8畳半の世界で――バシレイオンの中で」

著者:ジョージ クープマン

キャライラスト:中村嘉宏

メカイラスト:鈴木雅久

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