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2023.02.10

サンライズワールドクリエイターインタビュー第15回
『装甲騎兵ボトムズ』シリーズ監督 高橋良輔<前編>

サンライズ作品のキーパーソンとなったスタッフに、自身が関わった作品の思い出を伺うクリエイターインタビュー。第15回のゲストは、今年で放送から40周年を迎える『装甲騎兵ボトムズ』シリーズの原作・監督である高橋良輔さん。前編では、創業時から関わったサンライズの思い出、最初に手掛けた『ゼロテスター』からリアルロボット作品として大ヒットした『太陽の牙 ダグラム』に至るまでの流れを語ってもらった。


――高橋監督は、サンライズとは創業時の会社である創映社時代からのお付き合いになるのでしょうか?

高橋 そうですね。サンライズの創業者はみんな虫プロ(虫プロダクション)時代からの知り合いですからね。沼本(清海)さんだけが虫プロでは先輩で、あと創業に関わった人たちはみんな後から入ったんじゃないかな。まあ後輩と言っても数ヶ月程度ですが。サンライズの創業者の中では、山浦(栄二)さんとは仲が良かったですね。皆さん、後輩と言っても全員僕よりも歳上で。虫プロには中途採用で入ってきたんですよ。そんな感じですが、当時の記憶はかなり曖昧です。

――もう半世紀前の話になりますからね。

高橋 僕が虫プロに入ったのが1964年ですから、もう半世紀以上ですよ。当時は、それぞれが虫プロをすでに離れていて、僕もアニメーション業界の周辺にいながらいろいろと違うことをやっていたんです。アニメ専従者というよりは、アニメ業界の周辺にいながらマンガを描いたり、芝居をしている連中のところに潜り込んでみたり、コマーシャルを撮ったりして、ウロウロしていたところをサンライズの2番目の作品になる『ゼロテスター』を制作する際に「お前が監督をやれ」って呼ばれたんです。

――そうした流れがあったんですね。

高橋 サンライズの第1作目は『ハゼドン』という作品で、出崎統さんが監督をしていて。サンライズとほぼ同時期にマッドハウスができたんですよ。マッドハウスも虫プロを出た人たちが作った会社なんですが、サンライズとはちょっと違っていて。サンライズを立ち上げた人たちは、普通の会社で言う部長クラスの、虫プロがどうして潰れてしまったのかというのをもの凄く知っていて、だけど責任を取らなくていい立場の人たちで。そういう人たちが集まって「自分たちがアニメーションで食べてく組織を作るとすれば、虫プロが失敗したようなことはやらない。虫プロがやっていなかったこういうことをやる」というのを明確に持って会社にしたんです。マッドハウスはそうではなくて、会社の組織的にはもっと下の人たちが集まって、「明日から食えなくなっちゃうから、仕事をしなくちゃ」と立ち上げた会社で。そういう意味でサンライズは、きちんと東北新社と交渉して、お金を出してもらえるような集団だったんです。一方で、マッドハウスは下請けとして他のアニメ制作会社を手伝うというような存在から出発している。多分、その辺りの空気感を言葉にできる人ってもうあまりいないですよね。

――そうした方向性が異なる形でサンライズとマッドハウスは違う方向性で成長していくわけですね。サンライズはクオリティよりも制作会社としてやっていき、マッドハウスは職人的にクリエイターが中心になっていく感じだったと。

高橋 サンライズは、クリエイターを会社の中心に置かないと決めたんです。クリエイターはものを作る時に暴走するのを手塚治虫先生を通して見ている人たちだったから。マッドハウスは出崎さんや波多正美さんなど、クリエイターが中にいる会社だったんです。サンライズはクリエイターを仕事がある時に個別に作品ごとに契約するスタイルでやっていたわけです。

――『ハゼドン』や『ゼロテスター』の頃は、まだいろいろと大変な時期ですよね?

高橋 今と違って、作品を作るのにお金がない時代ですからね。お金がないことが、どっちの気分にでるかという問題で。出崎さんはやはりクリエイターですから、「こう作りたい」、「オレはこうしたい」という方向に行くわけです。でも、創映社はスケジュールと予算を重視する。そうすると、出崎さんは「これはオレが居続けるプロダクションじゃない」と途中で熱が冷めて、途中で降板してしまうんです。出崎さんはマッドハウスから創映社に送り込まれていたんですが、戻ってしまう。その後、『ハゼドン』がどう作られたかはわからないですが、監督がいなくても放送は決まっているのでそのまま各話演出なんかが中心になって制作は続けられたんでしょうね。そうすると、当時次の作品の監督を依頼する相手をイメージできなくて。「出崎統の次に誰がいるんだ?」となっても、誰もいないわけです。その時に、たまたま僕がフラフラしていて、山浦さんや沼本さんとも親しかったので、「あいつでどうだろう?」という話になったんですよ。それで呼ばれて。僕は当時、まだ演出としても全然確立していなかったし、各話演出で方々のスタジオに行っているようなことも全然なかった。演出経験も各話レベルで、主力じゃない。『ワンダースリー』、『どろろ』、『悟空の大冒険』なんかに参加したけど、その中にはエース級の人たちがそれぞれいる中での各話演出だったんです。だから、アニメで食っていくなんてことを自分で決めてなかったんです。そんな中で頼まれた仕事だったので、「とにかく、やってみますかー」と。そういう意味では、『ゼロテスター』は僕のアニメの再出発みたいなところがあって。幸いにも商売的に商品が売れて放送期間も延びたんですよね。

――『ゼロテスター』は、作品内容などの企画は、すでに決まっていた段階で参加されたのでしょうか?

高橋 そうですね。企画から参加はしていないです。特撮番組で大ヒットしていた『サンダーバード』という作品が、どんな構造になっているのかを分析して、それを日本のアニメーション用に再構成したらこうなりましたというのが『ゼロテスター』で、参加した頃にはメカのデザインも決まっていました。あとは1話ずつシナリオを作っていくという段階で呼ばれたんですよね。仕事も楽しかったですし、まだ若かったから、僕はほとんど家に帰らないで、スタジオでゴロゴロしながらやっていました。そんな感じで、僕的にはある程度成功作を作ったという気持ちでいたところに『宇宙戦艦ヤマト』が始まるんです。同じ1974年に、こちらが4月放送開始で、向こうは10月だったんですが、あれを見て作り手として打ちのめされて。『宇宙戦艦ヤマト』は自分の作っているアニメーションの3歩先くらいに行っているわけです。そこで、サンライズの次回作での監督は勘弁してもらって、「しばらく修行し直します」と。それで、富野(由悠季)さんが次の『勇者ライディーン』をやることになって。それで僕は1回サンライズを離れたんですよ。

――そうした流れで、次の『サイボーグ009』を手掛けるまで、時間が空いているわけですね。

高橋 サンライズを離れて、「スタジオあかばんてん」というのを自分で立ち上げて、アニメーションのコマーシャルや会社の宣伝用のショートフィルムを作ったり、『まんが日本昔ばなし』の仕事をして食いつないでいたんです。1回打ちのめされたアニメーションのテレビシリーズに戻ることは考えないところで日常を送っていましたね。そうしたところで、サンライズが会社として上昇気流に乗ったんですよ。当時、サンライズが局に出したテレビシリーズの企画が5本決まって。後発のスタジオがテレビシリーズ5本やるというのは、相当サンライズに運が向いたということなんです。だけど、こなせないわけですよ。監督の数が足りないから。

――そこで再び声が掛かったわけですね。

高橋 「困った時に、あいつなら言うことを聞くだろう」って呼ばれて。それで1979年に『サイボーグ009』をやるわけですが、これもなかなか評判が良かったんです。でも、そこでいい気持ちになっていたら、半年遅れで『機動戦士ガンダム(以下、ガンダム)』の放送が始まったんですよ。放送当時、音響スタジオに入っていたんですが、「今日は『ガンダム』の放送だから見よう」って言って、見たら、またそこで打ちのめされて(笑)。また自分のやっていることよりも三歩くらい進んじゃったよ、困ったなって。そこでの僕の気持ちは前と一緒で、「また修行し直してきます」って感じだったんだけど、サンライズの事情としては、このままの勢いで仕事をしなくちゃいけない。次の企画も決まっているから、お前さんはこれをやれと。その間に、僕はもうやりたくないと言い張っていたんですが、それに対して山浦さんが粘って『ガンダム』の全話のビデオを持ってきて「とにかく、全部見て欲しい。こういうものが漫画原作じゃなくて自分たちのスタジオの発想で作れるようになった。だから、同じ立場であなたも作品を作って欲しい」と言われて。

――サンライズとしてはまさに風向きが良い方に吹き始めたわけですね。


高橋 東映や東北新社の下請けではないという志が少しずつ固まりつつある状況で。それが、『無敵超人ザンボット3』や『ガンダム』という流れですね。その頃から、今で言う「オタク」的な感覚を持ったファン層が出てきて、それを維持すればヒットは作れるという自信がサンライズの中にできたわけですよね。でも、それは富野さんひとりでは担えないから、心やすく一緒に頑張ってくれそうなヤツということで僕が呼び戻されて『太陽の牙 ダグラム(以下、ダグラム)』をやることになるわけです。

――『ダグラム』にはどの段階から関わられたのでしょうか?

高橋 参加した時には、ダグラム本体のデザインはもうできてましたね。その頃には、先ほど名前が出た、沼本さんはサンライズを辞めてスポンサー側のタカラに入られていて。向こうからの発注とサンライズからの提示がうまく合致したので、だから『ダグラム』をやると。企画段階ですでに物語的なものも存在していたんですが、それを見るととても僕には作れそうになかったんですよ。だから、「やってもいいけど、話はゼロから作り直してもいいでしょうか?」と聞いたら「好きにしろ」と。ダグラムの商品さえ売ってくれればいいということで、それしか縛りがないところでスタートしました。

――『ダグラム』には監督だけでなく、原作としても名前が入っていますね。

高橋 僕を口説くのに一番有力な条件が、原作・監督という立場だということで。僕にそういうことができたのは、やっぱり『ガンダム』の成功というか、富野さんがやってみせたことが、僕の後の決意や後押しになってくれたという感じがしますね。だから、そういうことで富野さんに感謝しています。

――『ダグラム』では、原作という立場だからこそ、ご自身で描いてみたい要素を入れ込めた部分はあるんでしょうか?

高橋 ロボットものがやりたいということはなかったんですけど、ロボットを売らないとスタジオは成り立たない。これさえ売れれば何をやってもいいということで、自分の中にある気分を入れています。やっぱり、僕の年頃は何といっても学生運動があった。さらに、戦後の日本にある、若者の革命気分みたいなものがずっとあったんです。60年代なんかはそれが最高潮で。そういう気分、その時代に生きた若者たちというのは、やっぱり左翼的傾向、革命志向みたいなものがあって。僕もその空気を吸いながら育っていた中に、世界中に戦争があった。1950年代に朝鮮戦争が、60年代の終わりにはベトナム戦争があって。朝鮮戦争の時は、僕はまだ小学生ですからわからなかったですが、ベトナム戦争の頃になると18〜20歳くらいで、少しずつそういうことがわかってきた。

――そうした気分を作品に入れ込みたかったわけですね。

高橋 僕は実際には左翼的な運動はしていないんですよ。どちらかと言うと、軟弱な右でも左でもなくフラフラしていたタイプなので。でも、若い頃にそういうものを見ていたので、革命とかレジスタンスというのを物語にできないかなと。それで『ダグラム』は植民惑星がいじめられて、地球に対して独立戦争をしかるとかしかけないとかという話にしたんです。そんな中に主人公がいて、その父親は地球人代表みたいな形で親子対立をする。そういう政治風土がまだ日本にあった頃の雰囲気とクリンという少年の成長を親父との対比の中で出していこうと。メインライターの星山博之さんは学生運動の雰囲気を身体中に浴びていたので、大きいプロットは僕が書いて、星山さんにそういうシナリオを入れてもらったんです。

――一方で、『ガンダム』から流れてきた若年層のファンには難しい話にはなっていましたね。

高橋 『ガンダム』だったら冒頭の5分を見ると「こっちを応援しよう」とわかるように作られていますね。エンターテインメントとしてある種の成熟を見せている。でも、僕はまだ未熟だったので、そんな仕分けができるわけはなくて。このロボットを売らなくちゃいけない、そこに自分の作りたい物語も入れ込まないといけないという。それが原点である『ダグラム』で、あれからなかなか出られないんですよね。

――『ダグラム』では神田武幸さんと一緒に監督をやられていますが、そこはミリタリーテイストを深めるためというのがあるのでしょうか?

高橋 そうですね。僕はミリタリー感覚も、SF感覚も、ロボット感覚もない。ないない尽くしなんですよ。それで頼まれたけどひとりではできないということで、神田さんとは虫プロ時代から仲が良かったから、「一緒にやってくれない?」と頼んで。彼には演出としていつもいてもらって、現場をリードしてもらいつつ、僕は物語作りをしていったという感じですね。

――『ダグラム』スタート時のサンライズの空気はどんな感じだったのでしょうか?

高橋 僕が『ダグラム』に入った時には、『ガンダム』は打ち切りになった後だったけど、映画化も含めて成功するだろうという感じはすでにありましたね。ただ、『ガンダム』という1本の成功作に頼っていくと会社が先細って危なくなるからという考えはあったと思います。僕はロボットものは得手じゃないからやらないって言ったんですが、「いいからやってみろ!」という圧力に負けたんですね。一方で、富野さんも『ガンダム』の後もいろいろと手を変え、品を変えで『戦闘メカ ザブングル』や『聖戦士 ダンバイン』などをやっていますからね。当時は、まだ『ガンダム』頼りだったわけでなくて、『ダグラム』もそういうタイミングで始まった作品ですね。

――『ダグラム』に続いて『装甲騎兵ボトムズ(以下、ボトムズ)』がスタートするわけですが、企画としては『ダグラム』を作りながら考えていたような部分はあるのでしょうか?

高橋 いえ、『ダグラム』の仕事が終わるところまで『ボトムズ』は考えていなかったですよ。富野さんが新たな作品を手掛ける度にガラッと違うものを作っているところがあったので、僕もそうしなければならないだろうとは思っていました。そこで、『ダグラム』でできなかったことを考えた結果、至った結論は「スピード感」だろうなと。ただ、スピード感と言えば飛行に代表されますが、それはすでに富野さんが他の作品でやっているから同じようになってしまう。そこで、同じようにならないよう、地上でスピード感を出すということを考えて、ロボットのサイズも小さくしたのが『ボトムズ』なんです。


<後編>に続く

高橋良輔
1943年1月11日東京生まれ。東京出身。アニメーション監督、演出、脚本家、プロデューサー。大阪芸術大学キャラクター造形学科教授。
1964年、株式会社虫プロダクションに入社。主な作品に「W3(ワンダースリー)」「どろろ」「リボンの騎士」等がある。虫プロダクションを退社後、サンライズ創業初期に「ゼロテスター」(監督/1973)に参加。「太陽の牙ダグラム」、「装甲騎兵ボトムズ」、「機甲界ガリアン」、「蒼き流星SPTレイズナー」、「幕末機関説 いろはにほへと」などの監督を務める。

また、『装甲騎兵ボトムズ 幻影篇』のその後を描いた新作小説「装甲騎兵ボトムズ チャイルド 神の子篇」がKADOKAWAより発売中。
https://www.kadokawa.co.jp/product/322210001307/
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