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- インタビュー
サンライズワールド アニメ制作の裏バナシ
第4回 サンライズ創業メンバー 岩崎正美<前編>
今回のインタビューは、サンライズの前身である創映社の創業に加わり、その礎を築いた7人のおひとりである、プロデューサーの岩崎正美さんが登場。前編では、まず虫プロ時代のエピソードを語ってもらった。
――まず虫プロにお入りになるまでの経緯からお聞きしたいと思います。
岩崎 もともと芝居が好きで、中学、高校時代は演劇部にいました。部長だったから何でもやりましたね。高校卒業後は、大学進学はせず、内外織物という会社に就職しました。1年後に言われていた通り東京に転勤になりました。知り合いもいませんでしたが、芝居だけは続けたいと思い、若草などいくつかの劇団に入ったんです。会社の仕事があったので、芝居活動は会社が休みの日曜日だけでしたね。『日本誕生』という稲垣浩監督、三船敏郎主演の映画にエキストラで出たこともあります。なんだか柔道着みたいなものを着せられて、山を転げ落ちる役でしたね。天候の関係で撮影が何度も延期され、1週間ほど当時住んでいた新橋から東宝の砧撮影所まで通ったおぼえがあります。洋画の吹き替えも何本かやりました。
――演劇青年でいらしたのですね。
岩崎 でもそれだけでは食べていけないので、いくつもアルバイトをしました。劇団にいた仲間の手伝いで、彼の父親が社長をしていた映像の照明会社で働いたことがあります。通行人として『ひばりの捕物帳』『新選組』(中村竹弥主演)、照明マンとして『花柳流の諸発表会』『牧阿佐美バレエ団』、丸山明宏(のちに美輪明宏と改名)の初舞台に参加し、それなりの名前の知れた人たちと関係性を持っていたことで、のちの人間形成に役立っていたと思いたいです。でも、何しろ初めてだったので、右も左もわからずよく怒られました。当てちゃいけないところにライトを当てちゃったりしてね。
ただこんな生活を続けていくわけにもいかなくなったんです。その頃には結婚して子供もいましたので、家族を養うには安定した稼ぎが必要になったのです。それで、新聞で虫プロの制作募集の広告を見て応募しました。まったく関係のない仕事ではなく、映画の仕事がしたかったんでしょうね。ただその頃、映画はすでに斜陽産業でした。アニメーションはまったくわかりませんでしたが、映画には変わりがないだろうと。
――映画の夢は捨てきれなかったのですね。
岩崎 面接を担当したのが、山本瑛一さん他の方でした。「アニメーションって知っていますか?」と聞かれたので「よく知りません」と正直に答えました。それでもなぜか受かったのです。でもまあ定職に就けたからよかったと。それで制作進行をやることになりました。
――最初に担当された作品は何でしたか。
岩崎 その山本さんがディレクターだった『ジャングル大帝』です。演出は瀬山(義文)・勝井(千賀雄)組交代でコンテを切っていました。原画には北野英明さん、坂口(尚三)さん他、今考えればそうそうたるメンバーでした。
――初めてご覧になるアニメの現場はいかがでしたか。
岩崎 アニメーターがとにかく仕事をしてくれないことにびっくりしました(笑)。朝来てタイムカードを押すと、どっかへ行ってしまうのですよ。「今日は仕事どうしようかな」なんて言いながら。たいてい近くの喫茶店に行くようでしたね。こちらもアニメーションは初めてだったし、さて彼らに仕事をしてもらうにはどうしたらいいのかと途方に暮れましたね。勝井さんは、アニメーターの管理は僕にお任せという感じだったのです。「岩ちゃん、頼むよ」って。
アニメは、とにかく絵を描いてくれないとどうにもならない。もちろんシナリオだって絵コンテだって同じですが。でもアニメーターは映画でいえば役者です。芝居ができて絵が描ける。そんな特殊な能力の持ち主でしょう。一方当時の制作進行なんて、地位もまったくない、ただの雑用係でしたから。
――その後はどんな作品を担当されたのですか。
岩崎 『新ジャングル大帝 進めレオ』を経て『どろろ』に移りました。第1話の試写を観た手塚(治虫)先生が「これは僕の作品ではありません」と言い出した時は、慌てましたね。もう放映まで時間がないというのに。でも原作者であり、制作会社の社長が「直します」と言うのですからやるしかありません。先生は全カットが頭に入っているらしく、テキパキと指示を出し、本当に直してしまいました。すごい人だなと思いましたね。
――その後が、初めて手塚さんの原作を離れた『わんぱく探偵団』ですね。
岩崎 この作品から制作助手、つまりアシスタントプロデューサーになりましたが、とにかく予算のやりくりが大変でした。虫プロもその頃にはかなりの赤字だったからです。そこで自分なりに巻物という予算とスケジュール管理表を作り始めました。トレスマシンを虫プロで初めて使ったのも予算倹約のためです。そもそもトレーサーが不足していたのですから。トレスも自分で夜中にやりました。当時の性能では、三菱ユニ鉛筆のBで描いた線しかうまくトレスできなかったので、アニメーターには統一してもらいました。撮影を担当していた山浦(栄二)さんとはここで仲良くなったのです。
その後が『ムーミン』です。それまでは『哀しみのベラドンナ』班にいましたが、ちょうど1階で仕事をしていた『ムーミン』班から「1週間だけ手伝ってほしい」と言われて手伝ったら、そのまま担当することになりました(笑)。『哀しみのベラドンナ』はほとんど仕事をしないまま移ることになりました。
ご存知のように『ムーミン』は最初、東京ムービーで作っていましたが、原作者からクレームが来て、現場が虫プロに移ったのです。キャラクターから作り直さなければならなかったので、原作の絵に近い人がいいだろうと思って、僕が外部から藤原(万秀)さんを連れてきました。ところが藤原さんが演出のりんたろうさんと大喧嘩になり、降りてしまうという事件が起きました。それを含めて『ムーミン』は大変だったという記憶しかありません。『アンデルセン物語』をはさんで再開した『ムーミン』の新シリーズも担当しましたが、外部のスタッフを回っている時、車で事故を起こしたこともあります。眠くて眠くて仕方がなかったのです。せっかく上がった給料も、使う暇もないほど忙しかったのですから。
当時、新人教育の沼本(清海)さんが良く言っていました。「新人」の中に絵コンテが描けるやつがいると……安彦(良和)さんのことだと思います。
『アンデルセン物語』も予算的には大変でしたね。あれ、多少前後編はあっても、基本的に1話1話が独立した話でしょう。設定などをその都度作らないといけなくて、それで予算が普通の作品より多くかかってしまうのです。そうした数々の経験が、やがて虫プロからの独立、サンライズの立ち上げに繋がっていくことになります。
<後編>に続く
岩崎正美(いわさきまさみ)
1939年生まれ。京都府出身。1965年に虫プロ入社。その後、同プロの有志らと創映社設立に関わり、創映社の制作現場であるサンライズ・スタジオのプロデューサーとして『ラ・セーヌの星』『超電磁ロボ コン・バトラーV』『無敵ロボ トライダーG7』『太陽の牙ダグラム』などの作品を手がける。国際アニメーション映画祭「東京アニメアワ―ドフェスティバル2025」の「アニメ功労部門」顕彰者。