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2025.02.25

サンライズワールド アニメ制作の裏バナシ
第4回 サンライズ創業メンバー 岩崎正美<後編>


サンライズの前身である創映社の創業に加わった7人のおひとりである岩崎正美さんは、まさにサンライズの生き字引でもある。インタビューの後編では、サンライズ設立からその後担当された数々の作品について語っていただいた。


――虫プロから独立して、創映社(注:サンライズの前身となった映像制作会社)を立ち上げるまでの経緯をお聞かせください。
 

岩崎 虫プロが大赤字だったことは知っていましたし、もうこのまま残っても仕方がないと思いました。それで有志7人で創映社を立ち上げました。当時、株式会社を作るには、7人以上の発起人、つまり株主が必要だったのです。それが岸本吉功さん、伊藤昌典さん、渋江靖夫さん、沼本清海さん、米山安彦さん、山浦栄二さん、そして僕。ひとり10万くらいずつ出したと思いますが……ただそれだけでは資金が足りなかったので、東北新社を頼ることになりました。
 

――よちよち歩きながらも、何とか歩き出したわけですね。


岩崎 最初に作ったのが、河島(治之)さん原作の『ハゼドン』。次が『ゼロテスター』ですね。これは東北新社からの命令で作った作品ですが、昔、日本でのライセンス窓口を担当した『サンダーバード』がヒットしたから、夢よもう一度だったわけです。幸いヒットしたので、東北新社から僕らにもボーナスが出ました。たしか10万でしたね。「よくやった」というわけです。


――まずは幸先のいいスタートだったと。


岩崎 創映社は、絶対採算の取れる会社にしようというのが目標でした。末期の虫プロを見ていますから、ああはなりたくないと。だから最初の頃は、紙1枚、鉛筆1本、消しゴム1個無駄できませんでした。いずれは東北新社の傘下からも離れて独立したいと思っていたからです。


――岩崎さんが創映社で最初に担当された作品は何でしたか?


岩崎 旭プロの社長(山浦さんの兄の山浦勇一郎さん)から頼まれた『火事と子馬』(企画:日本損害保険協会)の仕事です。そこで安彦さんに会いました。制作意図の理解はとても早かったし、出来も良かったのを覚えています。
その次が『ラ・セーヌの星』です。まさにゼロからのスタートでしたね。エムケイの金子満さん、彼は東宝の女優、浜美枝さんのご主人ですが、彼の書いた原作があるにはありましたが、紙数枚のものだったのです。まとまった原作もないし現場もない。まず部屋を探さないといけませんでした。
広告代理店は電通でした。ところがその電通が用意していたキャラクターが、まるで『アルプスの少女ハイジ』みたいなイメージだったのです。これに監督をお願いしていた大隅正秋さんがノーを出した。「こんなキャラでは、フランス革命を題材にした作品はできない」。重ねて「電通に行って断ってきてください」と。


――たしかに無茶な感じですね。


岩崎 もうシナリオも4、5本できていたのですがね。仕方がないから、電通に行って「このキャラクターではできません」と言ったら「なぜできないんだ?」と聞かれたので、理由を説明しました。結局、「では、好きにやってください」ということになった。
そんなわけでキャラクターはもちろんですが、シナリオも作り直すことになりました。東映にいた飯島(敬)さん(クレジットは吉野次郎名義)他に頼んで1・2話のシナリオを短めであげてもらいました。
僕は僕で、東宝に行ってOPに使う炎の実写映像を選んで借りてきました。昔、アルバイトでいろんな映画会社に出入りしていたことが、まさかこんな形で役立つとは思いもしませんでしたね。


――ちなみに大隅さんは途中で降板されていますが……。


岩崎 ヨーロッパに行ってしまったのです。もっとも、いきなりではなく、以前からそれは聞かされていました。だから後任を、ディレクター補佐だった出崎哲さんにお願いしたのですが、その出崎さんもスタッフとケンカになり、降りてしまったのです。なんでアニメの人はケンカばかりするのだろうと思いながら、とにかくこのままでは作品が作れませんから、誰か探さなくてはならない。それで声をかけたのが、ちょうど『勇者ライディーン』を降板したばかりの富野喜幸(現・由悠季)さんでした。何とか引き受けてもらい、事なきを得たわけです。
 

――最終回はすごくきれいにまとまっていましたね。


岩崎 たしか39話で最終回でしたよね。本当は全42話になる予定だったのです。


――次が、『超電磁ロボ コン・バトラーV(以下、コン・バトラーV)』を始めとするロボットアニメになるのですね。


岩崎 ひとつの班の仕事が終われば、当然次の仕事を探さないといけません。その頃、会社の人間も増えてきましたし、100人いれば、80%は僕が採用した人間だったから、彼らを食べさせていかないといけない。
とはいえ、企画なんてそういくつもポンポンと出てくるものではないので、自分で営業もしたのです。それで東映から受注したのが『コン・バトラーV』でした。本来なら東映動画(現・東映アニメーション)に発注するのが筋ですが、東映動画では予算的に辛かったようです。それで予算の範囲でやりますと、うちで引き受けました。
この一連のシリーズの時も、例の巻物が役に立ちましたね。とにかく先を読まないと1年という期間を乗り切ることはできません。その1年先を読んで、予算を、スケジュールをどう調整するかという時に、巻物を作ることで全体を俯瞰することができるのです。1日スケジュールが遅れると、それを取り戻すのに1ヶ月かかることもわかる。こうしたことは、すべて『わんぱく探偵団』で学びました。


――スタッフィングも岩崎さんが担当されたのですか?


岩崎 自分で揃えました。長浜さんは、『勇者ライディーン』の実績があったので、山浦さんから紹介してもらいました。ただ、仕事で組むのは初めてでしたから、ノートにびっしりと「やってはいけないこと」を書いてお渡ししたのです。
それでも、長浜さんは絵コンテにないカットをリテイクで入れてきたりしましたけどね。「この1枚でいいんですけど」って。そのお金、払うのはこっちなのですけど(笑)。
でもその1枚を入れることで、映画としてちゃんとつながるのですよ。だから認めるしかなかったのです。そういうやりとりがあったおかげで、長浜さんからはすごく信用されましたね。長浜さんとは『未来ロボ ダルタニアス(以下ダルタニアス)』までお付き合いすることになりました。


――『ダルタニアス』は、途中降板した長浜さんの後任として佐々木勝利さんが監督を務められました。その佐々木さんは、岩崎さんがプロデューサーを務められた『無敵ロボ トライダーG7(以下、トライダーG7)』で監督を担当されていますね。


岩崎 佐々木さんを監督に推薦したのは僕です。『ダルタニアス』は途中からだったから、この作品が実質的に初監督になるわけですね。彼は、僕のプロデューサーとしてのやり方を理解してくれていました。初監督とはいえ、才能というのはやらせてみないとわからない部分もありますから。もちろん初監督という部分にまったく不安がなかったわけではありません。だから僕としては、シナリオを読み込んでおこうと思いました。名古屋テレビのプロデューサーだった関岡(渉)さんとも何度も話し合ったのです。おかげで関岡さんとも親しくなれました。


――実際、『トライダーG7』は成功しましたからね。視聴率も良かったし、関連商品も売れました。その前番組だった『機動戦士ガンダム(以下、ガンダム)』の成績が思わしくなく、『トライダーG7』は、名古屋テレビ枠を守るためにも失敗が許されなかったはずですから。


岩崎 そうなのです。失敗はできませんでした。失敗しても誰も責任を取ってくれませんから、もう必死ですよ。


――同時進行で、『ガンダム』の劇場版も担当されていますね。


岩崎 あれは名前だけです。岸本さんから「やってくれ」と言われて仕方なく引き受けました。『トライダーG7』やその後番の『最強ロボ ダイオージャ』で忙しいのに勘弁してくれ、と思いながらやっていましたね。だいたい、僕は『ガンダム』にはタッチしていないのですから。


――その後が『太陽の牙ダグラム(以下、ダグラム)』ですね。神田武幸さん、高橋良輔さんのふたり監督制になったのはどういった経緯だったのでしょうか。


岩崎 最初は高橋さんから、神田さんを使ってほしいと頼まれたのです。ただ僕としては、申し訳ないけど、ちょっと不安もあった。それで高橋さんがサポートに入ってくれるなら、ということでOKしたのです。作品の中身はおふたりに任せました。
ダグラム』のあとには『センチュリオン』というアメリカの合作も担当したのです。第7スタジオが最初に担当した作品です。もっとも現場は吉井(孝幸)さんに任せて、僕は専らアメリカとの交渉を手掛けていました。一度、リテイク代金を取りにアメリカにも行きました。拙い英語で向こうのプロデューサーとも交渉したのです。


――岩崎さんは、55歳でサンライズを退社されていますね。


岩崎 年寄りがいつまでも若者向けの作品を作るのはどうかと思ったのです。それで、何とかなるうちにやめようと思いました。


――アニメーションに携わった生活が圧倒的に長くなったわけですが、振り返ってみてどう思われますか。


岩崎 まずアニメーションというのは、人がいないとどうにもならない、人は財産だなと思いましたね。だからこそ、彼らを食べさせていかないといけない。その重圧との戦いでした。
あと、現場を長期的に見ていくこと。そして時代の風を感じることが大事だなと感じました。僕は虫プロ時代から、会社の近くに住んだことがなかったのです。虫プロ時代は、藤沢の鵠沼。サンライズに移ってからは、西武池袋線の東久留米、小田急線の向ヶ丘遊園。近かったのは東久留米くらいですが、とにかく通勤するのに、池袋や新宿を通らないといけない。でも都心を通ることで何となく世の中の風を感じていたのかもしれない、と今にして思うのです。今何が流行っているのか。今の若者は何を感じているのか。偶然とはいえ、会社から離れた場所に住んでいたからこそ感じることができたのではないかと。通うだけなら、会社の近くに住んだほうが絶対楽に決まっていますからね。


――それがプロデューサーという仕事に役に立ったと。


岩崎 そうですね。あとサンライズでは、企画が山浦さん、営業が伊藤さん、制作は僕、という具合に分業がしっかりしていたことも大きいですね。だから僕は余計なことを考えずに制作に専念できたのです。


岩崎正美(いわさきまさみ)
1939年生まれ。京都府出身。1965年に虫プロ入社。その後、同プロの有志らと創映社設立に関わり、創映社の制作現場であるサンライズ・スタジオのプロデューサーとして『ラ・セーヌの星』『超電磁ロボ コン・バトラーV』『無敵ロボ トライダーG7』『太陽の牙ダグラム』などの作品を手がける。国際アニメーション映画祭「東京アニメアワ―ドフェスティバル2025」の「アニメ功労部門」顕彰者。