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2025.03.10

サンライズワールド アニメ制作の裏バナシ
第5回 サンライズ第4代社長 吉井孝幸<前編>

 

今回のインタビューは、『クラッシャージョウ』『魔神英雄伝ワタル』などのプロデューサーとして活躍し、第4代サンライズ代表取締役を務めた吉井孝幸さんが登場。前編では、入社から制作プロデューサーとして活躍するまでを語っていただいた。
 

――サンライズを志望された動機からお聞かせください。


吉井 最初は知人に頼まれて、手伝いとして来ていました。他の企業への就職活動も同時に進めていて、そちらで内定をもらったのですが、最終的にサンライズを選びました。


――その理由は何ですか?


吉井 アニメーションに強い思い入れがあったわけではありませんが、お手伝いをしている間に、作品を作ることの楽しさを知ったことが大きいですね。「こういう世界があるのだな」と。でも仕事というのは人生で最も長く関わるものでしょう。なら、自分が好きで楽しめるものじゃないといけないと思ったのです。
作品づくりの楽しさと同時に、キャラクタービジネスというものの可能性を感じたことも大きいですね。当時のサンライズはまだまだ小さな会社でした。だから少しでも会社を大きくしたい、その一助になれればと。具体的なビジョンがあったわけではありませんが、何となくそう思っていました。そのためにも、自分の作品をできるだけ多く作りたかった。入社が20代後半。30歳から45歳までプロデューサーをやったとして、15シリーズは無理でも10作品は作りたい。その3割がヒットしてくれれば楽しいだろうなと。漠としていましたが、そんな目標を立てていました。


――サンライズに入って、まず制作進行からスタートされたと思いますが、最初に担当された作品は?


吉井 『超電磁マシーン ボルテスⅤ』です。


――それから、初プロデュース作品の『クラッシャージョウ』までずっと制作進行を担当されていたのですか?


吉井クラッシャージョウ』は、公開の2年前から関わっていました。


――すると、入社されて4年でもうプロデューサーとして活動されていたわけですね。


吉井 わがままなのです。どうも上からあれこれ言われるのが好きではないのです(笑)。


――『クラッシャージョウ』には最初からプロデューサーとして関わられたのですか。


吉井 企画段階から参加していました。私は、映像の勉強をしてきた人間ではなかったので、やっていて楽しかったですね。私はプロデューサーとしては新人で、よくわかっていない。でも原作者の高千穂遙さんも、監督の安彦(良和)さんも映画を作るのは初めて。そうした人間たちが集まって作る。貴重な体験をさせてもらいました。


――『クラッシャージョウ』はサンライズ最初の「完全新作」劇場映画となりましたが、その時のご苦労はございましたか。


吉井クラッシャージョウ』の頃は、まだ制作体制が脆弱で、本当に映画の公開に間に合うのか、という不安と常に戦っていました。当時サンライズには5つくらいスタジオがあったはずですが、他のスタジオの応援を頼むこともできず、制作体制を一から作り直さないといけなかったのです。会社のサポートがないというのは本当に大変なのです。社内だけではなく、外のスタッフなども使えない。たとえばサンライズは、仕上げはここ、という会社がありましたが、頼めない。その大変さは制作をやった人間じゃないとわからないでしょうね。
他のスタジオのクリエイターを使わないでほしい、というのは、『巨神ゴーグ』も同じでした。だからもう、いろいろなアニメーターに片っ端から連絡を取りましたよ。もう一本釣りに近い状態でした。今のようにメールも携帯電話もない時代ですからね。幸いだったのは、特に『巨神ゴーグ』の時は、安彦さんといっしょに仕事がしたい、というアニメーターが数多く参加してくれたのです。土器手(司)さんをはじめとしてね。


――その後、『ダーティペア』で、サンライズとしてもロボットものではない新しい路線を開拓して、『機甲戦記ドラグナー(以下、ドラグナー)』を担当されることになります。


吉井ドラグナー』は、いわゆる制作プロデューサーとして参加した最後の作品です。プロデューサーというのは大きく2タイプあります。企画を立て、営業して作品を一から作り出す企画プロデューサー。もうひとつが、現場を統括する制作プロデューサーです。サンライズには企画部があって、創業以来、山浦(栄二)さんが企画を立て、スポンサーと交渉していた。だからサンライズの場合、プロデューサーといえば、基本的に制作プロデューサーだったのです。でも、そのシステムは『ドラグナー』までで、あとの作品は、自分で企画し、スポンサーとの交渉ができるようになりました。


――その後が『センチュリオン』になります。この作品で初めて7スタに引っ越されています。


吉井 初の海外合作でしたが、大変でした。1話あたりの動画枚数が1万から1万5,000枚で全60本。それを10ヶ月で作らないといけなかったのです。当時のサンライズ作品はだいたい1話あたり3,000枚ですからね。合作の魅力は制作費が高いことです。当時、まだまだ経営基盤の脆弱なサンライズにとってはキャッシュフローの点で魅力的でした。でも、とても納期が守れそうにない。合作だから納期は絶対でしたからね。結局、役員会でも「とても無理だ」と反対されました。サンライズ全社あげて取り掛かっても10ヶ月では作れないと。
ところが、そうやってみんなができない、無理だと言うと、なんか反発心が湧いてきたのです。工夫すれば何とかできるはずだと、確たる確信があったわけではなく、見切り発車しました。


――結局、引き受けることになったわけですね。


吉井 シナリオはアメリカで作り、絵コンテからがこちらの作業でしたね。社内が使えないため、多くを海外発注しました。韓国が4割、台湾が1割、国内で3~4割。おかげで月の半分は韓国に行っていましたね。
ものすごい物量でしたが、とにかく納期優先でこなしました。とても無理だと思われていたのに、本当に「できちゃった」、としか言いようのない感じでしたね。


――それまでの蓄積があったからこそできたのでしょうが、本当に可能性を証明してしまったのですね。


吉井 とにかく納期だけ守る。それしか考えずに作りました。結果としてできてしまった。「やれるものだな」という経験は得難いものですし、達成感もありましたが、反省点も多かったですね。納期を守ることが第一で、他のことは多少犠牲にするしかありませんでしたから。それまでどんなに大変でも、同時期の他社作品に負けないクオリティーの作品を作ってきた自負があるだけになおさらです。会社としてはプラスになったのか、ということを考えると、複雑な思いがあったのも事実でした。


<後編>に続く


吉井孝幸(よしいたかゆき)
1951年生まれ。山口県出身。1977年に日本サンライズに入社。制作進行を経て、『クラッシャージョウ』で初プロデューサーを務める。その後『巨神ゴーグ』『ダーティペア』『魔神英雄伝ワタル』『魔動王グランゾート』『勇者エクスカイザー』などのプロデューサーとして活躍。1995年から2008年まで日本サンライズ代表取締役を務めた。国際アニメーション映画祭「東京アニメアワ―ドフェスティバル2025」の「アニメ功労部門」顕彰者。